~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (3-04)
いつの間に降りたのか、大海人皇子が近寄って来た。
「一番いい席をとってるな」
と大海人は言って、
「額田と話をするのは一年ぶりだが、変ったことはあるまいな」
その質問はどのような意味にでもとれるものであった。
「格別変ったことはございませぬ」
額田は答えた。
「それは結構」
「皇子さまの方は?」
「格別変ったことはない」
額田を真似まねた答え方であった。
「少しは変ったことがございましょう。昨年の皇女さまに続いて、今年は皇子さまもお生まれになりました」
「うん」
「妃さまも、── この方はお生まれになったのではなく、──」
「───」
「おつくりのなりました」
「───」
「それも、お一人ではなく、二人、いいえ、三人」
大海人皇子は、そのまま何となく額田の傍を離れて、向こうへ歩いて行った。逃げて行った格好であった。月光を浴びて歩いて行くその背後姿うしろすがたは、額田が初めてその腕に抱かれた当時とはすっかり変わっていた。大海人皇子は、三十一歳の男盛りであった。
大海人皇子は途中で立ち止まると、ゆっくり向きを変えて、また額田の方へ戻って来た。
「一人で居るのは淋しいであろう。十市皇女をここに呼ぶがよかろう」
その言葉で、額田は宴席の方へ眼を向けた。大海人皇子がそう言うのであるから、十市皇女はいつかこの席に姿を現しているのであろうと思われたが、そぐにはその姿をとらえることは出来なかった。
「呼んでやろう。呼ばないと、なかなか来ないであろう」
額田は黙っていた。呼ばないで黙っていても、十市皇女はいつか頃合ころあいを見計らって、自分のところへやって来るであろうと思われた。わざわざそういう伝言を寄越しているのである。
「さ、どうぞ、向こうへ」
額田は低い声で言った。大海人皇子と二人で話をしていのを、大勢から見られているのは好ましいことではなかった。中大兄皇子も眼もあった。
「いやに追い立てるな」
「取り分け若くてお美しい妃が、さっきからこちらに眼をお向けになっていらっしゃいます」
「誰のことか」
「存じませぬ」
大海人皇子はちらっと宴席の方へ眼を向けてから、
「なるほど、見ている」
「どなたが」
逆に額田の方がき返した。
「鸕野か」
その瞬間、額田は低く声を出して笑った。自分でも予期しなかった笑い声が、自分の口からまろび出たのであった。
「あのお方が若くて、お美しい?」
額田は言った。反問する言い方で、鸕野皇女の若さも、美しさも否定したつもりであった。これも意識して、そうしたのではなく、瞬時にして、そういう結果になったのであった。
「あの方が若くてお美しい?」
額田は再び言った。一回口から出してしまった以上、もう一回口から出しても同じ事であった。
今度は本当に大海人皇子は額田から離れて行った。そこへ入れ替わりに中大兄の第一皇子である大友皇子がやって来た。額田のところへやって来たのではなかったが、何となく歩いて来たら、そこに額田が居たので、額田の前で足を停めたといった格好であった。
2021/05/16
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