~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (3-05)
「月が美しゅうございます」
額田は自分から言葉をかけた。それが礼儀であった。この皇子に話しかけるのは、これが初めてであった。母は伊賀采女宅子娘で、大化四年の生れであるから十五歳ぐらいになるであろうか。
「月は美しいが、このようにして見るものではない」
若い皇子は言った。父の中大兄皇子に似たゆったりした言い方だったが、いじれにしても十五歳の皇子の言葉とは受け取れなかった。聡明そうめいな皇子として評判であったが、その言葉は、額田には幾らか傲慢ごうまんに聞こえた。
「でも、このようにして、月をますのも、また ──」
「月はひとりで見たい」
「本当は、額田もまたひとりで見とうございます」
「女の見る月と、男の見る月は違う」
「は?」
額田は若い皇子の見上げるようにした。十五歳の少年の顔ではなかった。この時気付いたのであるが、大友皇子はその表情ばかりでなく、その体にも既に少年らしいものはどこにもつけていなかった。その大柄な体は二十歳といっても通じるであろう。額田は既に一人の男性として出来上がった皇子を自分の前に見ていた。
「女の見る月と、男の見る月と違うと仰いましたが、どのように違うのでございましょうか」
額田は訊いた。すると、
「女はいつも月に慰められる。月から一つの言葉しか聞かぬ。男はそういうわけには行かぬ。男は月と話をする」
こんどの言葉には年齢相応の幼さがあった。
「皇子さまは、いつも月とお話しをなさいますか」
「する」
「どのようなお話しでございましょう。そばに居てお聞きしたいものでございます」
額田は言った。そして大友皇子の言うことがわからぬでもないと思った。月と話をするといおうのは、何と言う孤独な作業であろう。月に慰められるというのも孤独であるに違いなかったが、月と話し、月に語りかけるいろいろな言葉を聞くというのは、一層孤独であるに違いなかった。
額田は、この時ふいに背にうそ寒いものを感じた。この若い皇子はいま何を考えているであろうかと思った。少なくとも、この観月の宴に対して批評を持った一人の皇子が居るということは、はっきりした事実であった。しかし、誰もこのことに気付いていない。これまでは十五歳の若い皇子として、大友皇子の言動は誰からも注意されなかった。しかし、もうそういうわけには行かないだろう。
大友皇子もまた額田の傍を離れて行った。ひとり残されると、額田は視線を遠くに移し、大海人皇子の姿を求めた。そして自分が大海人の姿をさがしていることに気付くと、そういうことをする自分の心をいぶかしく思った。どういうわけで、いま大海人皇子の姿を求めたのか、それが、すぐ額田には判った。
── 若く美しい妃たちを月光の中にお並べになったりするのは、もう、このへんでおやめになりません。
額田はそう言ってやるつもりであったのである。
月光は明るく降っていたが、いつか宴席の方は暗くなっていた。広間の燈火は一つ残らず消され、その代わりに庭先のあちこちに篝火かがりびかれている。
2021/05/16
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