~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (3-06)
額田は広い庭を歩こうと思った。食膳しょくぜんを運んでいる大勢の侍女たちの動きが、縁近いところに見られたが、その方へ出向いて行く気持はなかった。十市皇女と会って、言葉を交わしたいだけである。しかし、その十市皇女はいっこうに額田の前に姿を現して来なかった。
しばらくすると、近くで若やいだ声が聞こえた。額田はその方向に視線を投げた。一組の少年と少女が追ったり追われたりしている。月光の中で、地上にされた二つの黒い影が二人を追いかけているようにも見える。額田はその二人が誰であるかを知ると、息をのむような思いで、それに見入っていた・一人は一刻も早く額田が自分の眼の中に収めたいと思っていた他ならぬ十市皇女であり、一人は高市皇子たけちのみこであった。高市皇子は大海人皇子とその妃尼子娘との間にもうけられた皇子で、額田が十市皇女を産んだ翌年、この皇子は生れていた。同じ大海人皇子を父に持っている異母弟妹である。
やがて十市皇女は、高市皇子に追われて走って来ると、そこに立っていた額田の体をたてにとって、額田の背後に廻った。額田は十市に皇女が自分と知って、そのようなことをしたのかと思った。そう思う以外に、いかなる思い方も出来なかった。十市皇女と高市皇子は額田の体のまわりを何回かくるくると廻った。いかなることが追うこにとなり追われることになるか知らなかったが、途中から十市皇女は追手になっていた。二人の口からは幼い疳高かんだかい声がはじき出されている。
やがて高市皇子は逃げ去り、それを負うことを断念した十市皇女はそこに残されて立っていた。額田は十市皇女の荒い息遣いきづかいを聞いていた。
「お疲れになったでしょう」
額田は十市皇女に言葉をかけた。どのような言葉をかけるのが自然か、額田には見当がつかなかった。すると、十市皇女が初めてそこに立っているのが額田であると気付いた風で、
「あ!」
という短い言葉を低く口から出すと、二、三歩あとずさりした。額田は十市皇女の顔を見守っていた。月光の中で、その髪は黒く、その顔は蒼白そうはくに見えた。
額田は何という言葉を出したらいいか、こうした場合の母親の言葉というものをさがしていた。必死な思いであった。いま何か優しい言葉をかけなければ、相手はたちまちにして飛び去ってしまうだろう。
額田が一歩足を踏み出した時、十市皇女はくるりと背を向けると、それを合図にしていっさんにけ出して行った。あとに残された額田は呆然ぼうぜんとしていた。この世で自分が最も愛しているに違いない美しい幼い者は、もはや自分の前には居なかった。
額田はいつまでもそこに立ちつくしていた。月光を浴びてはいたが、額田の眼は月も、月の光も見てはいなかった。宴席の方からは花やいださざめきが、波でも寄せるように絶えず聞こえて来てはいたが、額田の耳はそれを聞いてはいなかった。
額田は、十市皇女が自分を最初に見た瞬間、その面に驚きと恐れの表情を現したことが、いつまでも心にせぬこととしてあとに残った。もし十市皇女が自分に会うことを楽しみにしていたのであるなら、よもやあのような表情をとることはないであろうと思った。また、楽しみにしていたとしても、とっさの場合、十市皇女としてはあのような態度しか取れなかったかも知れないのである。あの時の自分の表情にしても、優しさと愛情に満ちた世の母親のそれであったと言い切る自信はなかった。額田は自分の顔が鬼のそれのようでであったかも知れぬと思った。そう思うと、しきりにそのように思われた。心は悲しさでうずいた。
2021/05/16
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