~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (3-07)
宴が半ばに達した頃、額田は席を縁近くの将几しょうぎに移した。ひとりだけ宴席から遠く離れていることが、どのような眼で見られるかわからなかったので、そうしたことを気遣きづかってのことであった。
それにしても十市皇女から受けた心の痛みをまぎらわしたい気持もあった。
中大兄皇子と鎌足の二人は、絶えず二人だけで話しているように見えた。この二人だけが観月の宴とは無縁であった。庭に降り立たないまでも、縁先に出て月を仰ぐぐらいのことはしてもよさそうに思われたが、二人は初めに陣取った席から動かなかった。従って、燭台の灯が消されてしまっている今、二人は暗い部屋の中に坐っているわけで、庭先の篝火の光が強くなった時だけ、二人の姿がぼんやりとそこに浮かび上がった。時に篝火の光の加減で、二人の顔の半面がいやにはっきりと見えることがあった。互に顔を突き合わせている二つのおもてが、暗い宙間に浮かび上がって見え、誰にもそれが不気味に感じられた。
しかし、それが観月の宴と無縁に感じられるのは第三者の場合であって、当の二人の眼には庭先に並んでいる篝火の光も、その向こうに拡がっている月光の降っている庭も、充分美しく見えていた。大勢の妃たちが縁先から庭へかけて居流れている姿も、また幼い皇子や皇女たちの動きも、充分観月の宴にふさわしい情景として、二人の眼には映っていた。ただ二人は、そうした情景を突き放してながめていた。自分をそうした宴席の雰囲気ふんいきの中に置いてはいなかった。そこだけが違っていた。
「豊璋を送り出したことは失敗であったかも知れぬ」
中大兄が言うと、
「── かも知れませぬ」
鎌足は答えている。
「失敗だったかも知れぬが、送り出してしまった以上、今さら取り返しはつかない」
「左様でございます。よかれしかれ、このまま押し切る以外は」
「あの場合、豊璋を送り出すことに反対した者があったな」
「大海人皇子を初めといたしまして、数人の者が最後まで反対でございました。豊璋の器が小さく、必ずや軍の統制の上に問題を起こすと ──」
鎌足は言った。あとは二人とも押し黙っている。もうさっきから長いこと、二人はこのようなことを繰り返しているのであった。
額田は縁近い将几に腰を降ろしていた。額田には、そのような中大兄と鎌足の姿がさして不気味には感じられなかった。今二人を取り巻いているものが、観月の宴とはおよそ遠いものであることは判っていた。半島出兵の問題をひっさげて、二人は観月の宴にやって来ているのである。不気味と言えば、むしろ他のことであった。いつも中大兄と鎌足が居る場所には必ず姿を見せている大海人皇子が、今宵に限ってそこに見られぬことであった。
大海人皇子に方はあちこちに姿を見せていた。おのが妃たちの中に入っているかと思うと、兄の皇子の妃たちの中に入っており、庭先を歩いているかと思うと、縁側の幼い皇子、皇女たちの相手をしていたりした。大海人皇子の動きだけは、こうした席にふさわしいものであった。いかにも観月の催しを女たちと共に楽しんでいる風に見えた。
そうした大海人皇子が再び額田の所へやって来た。額田はこのような二人の皇子の大勢の妃たちの居る所で、余りれ馴れしく大海人皇子から話しかけられることを好まなかったが、大海人皇子はそうしたことには一切気を使っていなかった。全く屈託なく見えた。大海人皇子は額田だけに聞こえる低い声で言った。
「中大兄皇子は、大勢の妃たちの中で誰が一番好きかな」
「存じませぬ」
額田はすぐ答えた。これも相手に聞こえるだけの低い声であった。このような席にははなはだふさわしからぬ話題であったので、それでその話題を打ち切ってしまおうと思ったのである。そうした額田の気持を充分知っているに違いなかったが、大海人皇子はそんなことで額田を解放しなかった。
「遠慮はらぬ。言ってみるがよかろう。誰か、汝か」
「存じませぬ」
「存ぜぬことはあるまい」
「存じませぬ」
額田はいい気なものだと思った。自分のことはたなに上げて、中大兄皇子ことばかりを取り上げている。
「鸕野皇女さまが、こちらを。──ほら、ごらん遊ばせ、鸕野皇女さまが」
額田は最後の切り札を出した。すると、こんどもまた大海人皇子は額田から離れて行った。
大海人皇子が退散して行くと、大海人が残した残して行った質問だけが、額田の心の中に残った。一体、中大兄皇子はここに居並んでいる大勢の妃たちの中で、誰に一番深い愛情を持っているのであろうか。これは額田にも充分興味ある問題であった。
2021/05/17
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