~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (4-01)
明くれば中大兄皇子の称制第二年である。新しい年を迎える新政の権力者たちの心は一様に緊張したものを持っていた。この年が第二回の大々的な半島出兵の年になることは、誰の眼にも明らかだった。好むと好まないにかかわわらず、大軍を半島に送り出さなければならない事態はやって来るに違いなかった。新羅にしろ、唐にしろ、現在の小康状態をそのまま維持していようとは思われなかった。大勢をいっきに決しようとする動きは、それとわからぬ戦線の小さい動きにも感じられた。そrは、味方にとっても同じことであった。決戦を長びかせていい筈はなかった。第二回の半島出兵の準備の出来次第、態勢を決戦の形に持って行くことの方が有利であった。それを今日まで延ばしているのは、軍船と兵器と糧秣りょうまつの問題であった。が、それもこの新しい年の初夏までに解決出来る筈であった。
朝廷においては、新年早々から出兵の時期のことが議せられていた。たとえ少々の無理は押しても春までに出兵すべきだという意見もあれば、決戦を準備万端調ととのった夏以後に持って行くべきだだという考え方もあった。前者は唐の援軍の到着以前に事を片付けてしまうという作戦であり、後者はたとえ敵が強力になっても、無理な戦闘はすべきではないという考え方であった。
前者の主唱者は大海人皇子であり、半島派遣軍と豊璋を首班とする百済軍との間に、このままで行くと、いつすきが出来ないとも限らなかった。そうした内訌ないこうの生じないうちに、兵の気持を決戦に盛り上げてゆくべきである。こういう考え方であった。これは百済へ送り込んだ豊璋の人気が捗々はかばかしくなく、半島からの使者たちの口からとかくのうわさが伝えられていたからである。
これに対して中大兄皇子は、豊璋の問題もさることながら、それが生命いのちとりの問題になろうとは考えられぬ。もともと全軍の指揮を取らせるために、豊璋を半島へ送り込んだのではない。自然に戦機の熟するのを待って、半島へ第二陣を送り、そのまま一気に勝敗を決する作戦を取るべきである。この考えを鎌足も支持した。
しかし、この二つの考え方のどれに決したというわけでもなかった。春までに出兵するか、少し遅らせて夏まで待かというだけのことであり、結局のところは半島の情勢に対処する措置がとられねばならないことで、出先機関の意向がその選択権を持っている格好かっこうであった。
この年になって最初の半島からの死者がやって来たのは一月の終りであった。使者の報告は予期しないものであった。豊璋が昨年の暮に突如、都を?留城そるさしから避城へさしに移したというしらせであった。
使者の奏するところにると、豊璋は近臣たちにはかって、
──?留城は耕地が少なく、土地はせ、農を営むにはふさわしからぬところでもある。久しくここを都にしていたら、民は飢えてしまうだろう。また軍事的に見ても格別重要な場所とは言えず、攻撃には不向きで、せいぜい防ぎ闘うのが関の山である。ここを棄てて、都を避城に移すべきである。避城は周囲に山をめぐらし、敵からの護りは固く、しかも土地は豊穣ほうじょうで自然の恩沢に恵まれている。
これに対して、朴市田来津えちのたくつは、
── 避城の、都としての欠点の最大なるものは、敵の布陣にしている場所からわずか一夜の行程であることである。農耕に適しているとか、適していないとかいうようなことは、第二の問題である。民の飢えることなどを問題にしていると、それより先に国がほろんでしまうだろう。現在、敵が来襲を控えているのは、?留城が険しい山を背負って、谷は狭く、守りやすく攻めにくいためである。ところが避城は平地である。もし避城のような平地に都していたら、とうの昔に敵の攻略ところとなっていたであろう。今日まで敵の侵すところとならないでいるのは、全く?留城が天険の利を負うているからである。
いさめて、都を移すことに反対した。しかし、豊璋はそてに耳を傾けず、避城に都を移すてしまったということであった。使者の口上には、明らかに豊璋の措置に対する非難が含まれていた。これは言うまでもなく、半島派遣軍将兵全部の見方と見ていいものであった。
翌二月、今度は百済からの使者が朝貢物を持ってやって来た。これは豊璋の命によるもので、自分一人の考えで勝手に都を移すような独断専行は非難されるべきであったが、戦時中にも拘わらず大和朝廷への貢物を忘れないとする気持は、好意をもって受け取ってやらねばあった。
中大兄皇子はそうした豊璋を、非難したり、許したりした。大海人皇子の方はきびしかった。。
朝貢物に気を使うような時期ではない。事態はもっと差し迫っているのである。にもかかわらず、朝貢物だけは忘れないようばところが、豊璋の武人としては信用の置けない天であるとした。
事、豊璋に関する限りに於いては、間もなく大海人皇子の見方が正しいことが証明された。百済の朝貢しを追いかけるようにして、一月ほどの間を置いて派遣軍から使者がやって来た。
── 都を避城に移してから程なく、新羅に兵が動いて、百済の四州を焼き、要地徳安とくあんを取りました。避城はそうした戦線から余りにも近く、地の利を得ないので、避城に移っていた兵団はことごとくそこを棄て、再びもとの ?留城に戻りました。
事態は田来津が予想した通りになったわけであった。しかも、今度の場合は、そうしたことに関して豊璋を非難したり、批判したりしている余裕はなかった。新羅の行動から見て、ようやく戦機は動こうとしていた。要地安徳が敵の手中に落ちたことも棄てて置けなかったし、四州が焼かれたということも、はっきりと兵力の不足を物語るものであった。
事ここに至っては即戦即決派、自重派の区別はなかった。中大兄皇子も大海人皇子も、即時本格的な出兵を行うべきであるということにおいて、いささかの意見の齟齬そごもなかった。半島からの使者が来た日の夜から翌日のかけて廟議びょうぎは開かれた。朝臣の主だった者は尽く一堂に集まった。
出兵のことは即時に決まり、中大兄皇子の口から第二軍派遣のことが命せられ、そのあと長い時間をかけて、その編成が行われた。
2021/05/19
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