~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (4-02)
翌日から筑紫一帯の地ははちの巣をつついたようになった。兵団という兵団は、やむろしていた地を離れた。初めは兵団の移動は無秩序に行われているように見えたが、次第に兵たちが筑紫港から程遠からぬ三ヵ所の地点に集められていることが判った。兵団と兵団とは、到るところで交叉こうさし、交叉するたびに喚声が上がった。兵たちは、自分たちが海を渡らねばならぬことを知っていた。まだ命令が下ったわけでも、そうした うわさが流れているわけでもなかったが、兵たちにはそうした覚悟のほどを固めさせるものが、筑紫一帯の地のただならぬ動きの中にあった。
噂は色々な形で飛んだ。半島の北部の高句麗の地に派せられることになったらしいという噂もあれば、直接唐土を目指すことに決まったそうだという噂もあった。中には、新羅はすでに亡んでしまって、こんどの兵団にすべてはそこに移駐するのだというような噂もあった。高句麗も、新羅も、唐国も、そこがどのくらい離れている国か、兵の大部分は知っていなかったので、噂はのびのびと自由に流れた。唐も、新羅も降服してしまったというようなことまで、まことしやかに伝えられた。半島へ渡っても、すぐ帰って来なければならぬが、せっかく軍船を仕立ててしまったので、それを一度は使わなければならぬのだ。そんなことさえも、一部で言われた。
港には毎日のように、軍船がどこからともなく運ばれて来た。軍船の形は雑多だった。新羅様式の船もあれば、高句麗様式、百済様式の船もあった。水軍の訓練を受けた兵たちは、自分たちが乗る船が、従来からある半島型の船とは違っていることを知っていた。そうした船が一艘も姿を現していないことで、まだ乗船の日の近くないことを噂し合った。まだ何十日も先のことであるに違いないと言い合った。
兵たちは、交替で毎日のように港にやって来て、積荷の作業に従事した。殆ど食糧を詰め込んであると思われる箱であった。何日かすると、積荷の箱は急に重くなった。明らかに武具の箱であった。ある時、その重い箱の幾つかが割れて、内容物がこぼれ出したことがあった。武具ではなかった。武具を造る道具であった。ふいごや、つちや、火熱した鉄片をはさむやっとこ・・・・様のものなどであった。これを見た兵たちはうんざりした。こうした物まで、しかも何艘分ものおびただしい数量を持って行くようでは、半島に渡って、すぐ凱旋がいせんして来ることなどは到底覚つかないことに思われた。こうしたことから、兵団が長期にわたって、半島の生活をしなければならぬというような噂も流れ始めた。
三月の終りに、半島へ派せられる兵団の指揮者たちの名前が発表された。全兵団は前軍、中軍、後軍の三つに分けられ、前将軍は上毛野君雅子かみつけのきみわかこ間人連大蓋ほしひとのむらじおおふた、中将軍は巨勢前臣譯語こせのかむさきのおみおさ
三輪君根麻呂みわのきみねまろ、後将軍は阿倍引田臣比羅夫あべのひけたのおみひらふ大宅臣鎌柄おおやけのおみかまつかといった顔ぶれであった。将軍たちはいずれも高名な名門の出か地方の豪族出身で、これ以上望めぬというといった堂々たる陣容であった。そしてこれに率いられて半島の戦線に向かう兵は二万七千余人。
この前の発遣部隊に下されたみことのりには、百済救援のためとあったが、今度の出動部隊への詔には新羅を攻撃するためと、はっきりとその目的が示されてあった。こうした指揮者たちの発表を境として、あらゆる噂はふっ飛んでしまった。兵たちは誰もが、新羅を攻め、それを救ける唐軍と戦火を交えるために、自分たちが半島に渡って行くことを知らなければならなかった。
兵たちが訓練の時使用した船と同じ型の兵船が何百雙となく港を埋めた日、兵たちには酒肴しゅこうが給せられ、故国との袂別べいべつの儀式が執り行われた。そしてその翌日、早朝から前軍の兵たちの乗船が行われ、暮刻、兵船は次々に港を出て行った。
それから何日かを置いて、中軍の発進があり、更に何日かを置いて後軍の発進があった。三軍編成の大兵団が出て行くと、筑紫一帯の地は火が消えたようになった。それまで兵たちのあふれていた兵舎はからっぽになり、馬のつながれていた厩舎きゅうしゃもまたからっぽになった。そのからっぽになった兵舎や厩舎には、新しく徴せられた兵や馬が入って来たが、その数は知れたもので、それが埋まるまでには、まだ何ヵ月かを要するものと思われた。
2021/05/20
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