~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (4-03)
額田女王は兵団発遣前後から、連日のように戦捷せんしょうを祈念する神事に奉仕していた。額田は中大兄皇子ともめったに顔を合わす事ことのないこのような明け暮れが、心にかなっていた。曾て大海人皇子から離れたように、いまは中大兄皇子からも離れていた。額田は神の声を聞く女としての生活に立ち返っていたのである。
中大兄皇子の方も額田を求めることはなかった。中大兄皇子もまた、額田の神前に奉仕している姿を見ると、そのままにしておく以外仕方なかった。中大兄皇子もまた神の加護を得ることのためには、己が腕の一本や二本はし折ることも辞さない気持であった。
半島からの使者は次々に派せられて来た。前軍、中軍、後軍、それぞれが上陸すると、新羅国内に拠点を作っていた。百済再興軍や第一回の派遣軍と連絡を取って、大きな作戦のもとに行動を開始するのは、一ヶ月や二ヶ月先になる筈であった。
筑紫の本営からも連絡の使者は十日をあげずに派せられていた。第二回の兵団の発遣に先立って、高句麗に派せられていた犬上君いぬかみのきみが帰って来た。
── 途中石城里しゃくさしに立ち寄ったところ、そこで思いがけず百済王豊璋にえつしました。豊璋はその時福信の罪について語りました。
この犬上君の報告は、何とも言えず暗い予感を持ったものであった。豊璋が誰の罪を難じても、それはそれで取るに足らぬことであったが、人もあろうに再興軍の功績者であり、豊璋を迎えるに最も熱心であった福信の罪を難じるとあっては、捨て置けぬゆゆしき問題であった。
中大兄皇子も、大海人皇子も豊璋に対して不安なものを感じたが、鎌足ほどでえはなかった。鎌足はひどく暗い顔をして、
「豊璋の性格からして、福信の罪を難じただけで、それで事が収まるとは思われません」
と言った。
2021/05/20
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