~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (4-04)
六月になると、どうしたものか、半島からの使者は途絶えた。それまでに五日か六日の間隔を置いて、次々に使者は派せられて来、めったに十日と連絡の断たれる事はなかったが、それが六月の初めから使者の船の港に入って来るのが見られなくなった。連絡の使者がやって来ないと、半島の状況というものは全くわからなかった。
六月の半ばになっても、半島からの使者がやって来ないので、筑紫の本営には不安な空気が漂い始めた。朝臣たちは毎日のように廟堂びょうどうに集まっていたが、格別議する問題はなかった。状況の判らぬ戦線に対して、作戦の練りようはなかった。この頃から、また鬼火の噂が立ち始めた。さすがに朝臣たちは誰もそんな噂は口に出さなかったが、女官たちは寄るとさわると、鬼火を見たとか、見ないとか、そんなことを言い合った。
今度の鬼火はこの前の時のように宮殿の内部には出ないらしく、それを見たという者の話は殆どが戸外であった。深夜、宮殿の裏庭を通ると必ず五つや六つの鬼火が燃えている。青い燐光りんこうを放ちながらちろちろ燃え、それも一ヵ所に停まっているのではなく、高く低く浮遊ふゆうし、しかもついたり消えたりしている。鬼火を見たという者は、誰もがそんなことを言った。
額田は必ずしもそてを見るためというのではないが、数人の侍女に守られるようにして、深夜苑内えんないを歩いたことがある。鬼火というものを見る事が出来るなら見てみたいと思った。苑内の一部を歩いて、何も出ないので館に戻ろうとした時、侍女の一人がけたたましい叫び声を上げて失神した。その叫び聞いて、他の侍女たちも怯え立ち、それぞれが悲鳴をあげた。続いて、もう一人が気をうしなって倒れた。気丈な侍女が一人残っただけで、あとの三、四人の侍女たちは逃げ去ってしまった。
額田は突然起こった椿事ちんじの中に 呆然ぼうぜんとした。額田自身は鬼火を眼にしていなかったのでこわいとか不気味だという気持は持たなかったが、失神している二人の侍女をどうにかしなければならなかった。侍女たちは二人とも申し合わせたように、あたりに等間隔に配されてあるはぎの大きな株の根もとに、ながながと身を横たえていた。一人は俯伏うつぶせになり、一人は体をゆるくの字に曲げて横向きの姿勢でのびている。
額田は俯伏せになっている方の女を抱き起こし、気丈な侍女はもう一人のくの字の方を揺り動かした。女たちはすぐに正気に返ったが、二人とも面には血の気というものは全くなかた。すぐ館に連れ込んで、事情を問いただしてみたところ、二人とも口から出す言葉は支離滅裂だった。先に倒れた方は、確かに鬼火を見たように思ったが、今となっては、それもさだかではない。怖い怖いと思っていたので、ふいに鬼火の幻影の襲うところとなったのかも知れない。しかし、青い火が足もとに転がって来たことだけは、どうも確かなような気がする。そんなあいまいな答えだった。
あとから倒れた方は、明らかに恐怖のための失神だった。他の侍女たちの悲鳴を聞いたことだけは知っているが、そのほかのことは覚えていないということであった。しかもこの事件で判ったことではあるが、先に倒れた方の侍女は懐妊していた。そうしたことのありそうな侍女ではなかったが、誰とも判らぬ男の子供を宿しており、そうしたことから来る精神のたかぶりが、こうした事件を起こしたのかも知れなかった。この事件は、鬼火の噂を一層真実性のあるものにする役割を果たした。この事件に立ち合った侍女たちが、次第に自分もまた鬼火を見たような気持になり、それを口に出してしゃべったからである。
2021/05/20
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