~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (4-05)
こうした鬼火事件があってから二、三日して、待ちに待った半島からの使者がやって来た。第二回発遣の前将軍上毛野君雅子の軍から派せられて来た者であった。
── 激戦の末、軍は新羅の沙鼻岐さびき奴江ぬえの二城を抜きました。
短い使者の口上であったが、この捷報しょうほうで、筑紫の本営は生色を取り戻した。
その翌日、こんどは第一回の発遣軍からの使者が派せられて来た。この方は、反対に新政の指導者たちの面から血の気という血の気を奪い取ってしまうに足るものであった。
── 王豊璋は謀叛むほんの企てがあるとして、福信を獄につなぎ、って、首をさらした。
この使者の報告で、朝臣たちは総立ちにあんるほどの衝撃を受けた。鎌足が懸念けねんしたような事態が半島では起こっているのである。福信がいかなる人物であるにせよ、現下の半島の情勢に於いては、福信はなくてはならぬ武将であったのである。いったん滅亡してしまった百済を、ともかく、ここまで再興させたのは福信であり、唐と新羅の連合軍に対して、寡兵かへいを以て対等に闘って来たのは、福信ひとりの力といってもよかった。その戦闘上手じょうずなことは、遠く唐の本国にまで聞こえていた。その人物を、豊璋は斬ってしまったというのである。
第一回、第二回の派遣軍の中には福信に劣らぬ、或いはそれ以上の武将は何人もいるかも知れない。しかし、、半島の地理に関する智識にいて、半島に生れ、半島に育ち、多年半島の戦場を馳駆ちくして来た福信に及ぶ者があろうとは思われぬ。人もあろうに、その福信を、豊璋は斬ってしまったというのである。
しかし、その使者の報ずるところに依ると、豊璋のやり方は常人とは思えぬ血迷ったものであった。豊璋は福信を獄につなぐと、かわを以て、たなごころ穿うがちつなぐという残酷な事をし、福信の罪状はすでに明らかである。斬るべきかどうかと、周囲の者にいた。すると德執得とくしゅうとくという者が、この悪人は許すべきでないと答えた。福信は德執得につばして、この腐れ犬の如き心卑しき者めがと言い、そしてこうべを刎ねられたということであった。
この日から、筑紫の本営は繁く使者を半島に派するようになった。王豊璋に任せておけない気持があったので、派遣軍の首脳者たちに、直接命令を発するという方法を取らざるを得なかったわけである。豊璋の独断専行を封じなければならないことは勿論もちろんだったが、と言って、また派遣軍と豊璋との間にすきを生ずるようなことがあっては、事態を一層悪くするものであった。それはそれで、また心しなければならなかった。使者は派遣軍にも送られると共に、王豊璋にも派せられた。
福信が斬られっということから来る半島の混乱は、やがて半島から派せられて来る使者たちの口上にもはっきりと詠み取れた。決戦の機が刻々迫っている中に、あらゆる事に於いて、味方は統一を欠いていた。先の使者が報じて来たことを、あとの使者が訂正したり、二ヵ所から派せられて来た使者の報告が、それぞれに大きく違っていたりした。
こうした情勢下に、暦は七月に入っていた。ある日、額田は王宮の廻廊で中大兄皇子と顔を合わせた。額田は頭を下げて、中大兄皇子の行き過ぎるのを待ったが、中大兄は額田の前に立ち停まると、
「今朝、たくさんの鳥の群が渡った」
と、言葉をかけて来た。
「は、うっかりしておりまして、とんと、気付きませんでした」
額田は答えた。すると、
「鬼火を見たそうだな」
額田は顔を上げ、
「いいえ、鬼火など見てよろしいものでございましょうか。ただ、そうした根の葉もないうわさに怖れて、侍女の一人が失神いたしましたまでのこと」
「いや、俺も見た。初めて、ゆうべ鬼火というものを見た」
中大兄は言った。にこりともしない言い方だった。額田は自分から言葉を出さないで中大兄の顔を見守るようにしていた。
「額田はうそだと思うだろう。だが、本当に見たのだ。鬼火というのは火が勝手に飛び廻るものかと思っていたが、そうではない。亡者が先に火を付けた長い枝を持って歩いて来るのだ。何の木の枝か知らぬ。ともかく、その先に火が付いている。亡者が歩く度に、その火は揺れ動く。亡者が手にしたその枝を上げると、火はふわりふわりと宙を上がって行く。反対に枝を下におろすと、火は地面を這うまで下がって来る。時々火が消える。火が消えると亡者がそれを手許てもと手繰たぐり寄せて火をつける。火はついたり、消えたりする。やはり不気味なものだ。あまり気持のいいものではない」
額田は中大兄皇子の面に眼を当てたまま、そこから視線を動かさないでいた。額田は中大兄皇子の表情が、全く違ったものに置き換えられる瞬間を待っていたのである。中大兄の顔がゆがむと一緒に、笑い声がその口から出るに違いないと思っていたのである。だから、その瞬間の来るのを待っていたのである。額田はその時、己が口から出す言葉さえ用意していた。
── 額田も、その鬼火とやらを見とうございました。皇子さまおひとりでご覧にならず、こんどそのような事がございましたら、額田にも見せていただきとうございます。
そう言うつもりであった。しかし、こうした額田の期待は裏切られて、中大兄の顔はいささかも変らなかった。
2021/05/20
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