~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (4-06)
「あまり気持のいい見ものではない」
そう言うと、中大兄皇子はそのまま額田の前から離れて行こうとした。額田はとっさに、それをさえぎるように前に足を踏み出していた。
「いつ、どこでそのようなものを」
「ゆうべのことだ。気が付いたのはゆうべだが、以前からいつも鬼火は出ていたかも知れぬ」
「かりそめにも、そのようなことが」
「ないと言うのか」
「あっていいものでございましょうか」
「ところがあるのだ」
「一体、それはどこでございますか」
「寝所の前の廊下だ」
「夜遅くあのようなところをお歩きになるからでございます。夜遅くあのようなところをお歩きになれば、鬼火の一つや二つ出るのは当たろ前でございましょう」
額田はそうした言い方をしたが、そうした言い方をしただけで、気持は言葉について動いてはいなかった。平生の額田なら額田らしい言い方で、他の妃たちの許に通う中大兄にちくりと一本針をさしてやるのであったが、今は言葉だけのことで、気持はそうしたことから遠かった。
「今夜も出るかも知れぬ」
「御寝所からどちらへもお出にならぬことでございます」
「部屋から出ないでいても、部屋の中へ入って来るかも知れぬ」
この時初めて中大兄皇子は笑った。そして額田から離れて歩き出していた。
額田はそこに立ちつくしていた。中大兄皇子の言ったことを、そのままそっくり真実として受け取れる気持はなかったが、中大兄皇子は疲れていると思った。本当に鬼火を見ようと見まいと中大兄皇子が疲れていることだけははっきりしていた。額田は今までに、この時のように心衰えた中大兄と言葉を交わしたことはないと思った。
額田は中大兄のあとを追うようにして歩いて行った。中大兄はそうした額田を知ってのことか、ゆっくりと歩いて行き、中庭の出口の所で足を停めると、
「今夜、鬼火を見せてやる。鬼火見物に寝所へ来るがいい。── 汝の好きな有間皇子も、石川麻呂も、古人皇子も難波なにわほうじられた帝も、── それからまだ、まだ、たくさんの ──」
「額田、よろこんで見せて戴きましょう」
額田は相手の言葉を遮るように言った。確かに疲れているに違いない今の中大兄に対して、自分が出来るならいかなることでもしてやりたい気持だった。その為には生命さえ惜しくはなかった。鬼火を使って自分を寝所へ招いたと考えられぬ事もなかったが、額田の気持はそうしたこととは全く違ったところにあった。それはそうであってもよかった。額田には国の運命を半島の出兵に賭けている権力者の、ついぞ今までに見せたことのなかった疲れが、ひどく気になり、痛々しく感じられるのである。半島の戦局がどのようになっているか、額田は知らなかった。ただそうしたことから来ているに違いない中大兄の苦しい立場だけが、額田には棄てて置けぬものとして感じられたのである。鬼火はどこにも出ないのかも知れないが、中大兄の周辺だけには出ているのである。誰に眼にも見えぬ鬼火の青い火の不気味な揺れが、中大兄皇子の眼だけに見えているに違いないのである。
2021/05/21
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