~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (4-07)
八月の声を聞くと筑紫一帯の地を秋風が吹き始めた。例年より秋が早くやって来るように思われた。八月の半ばを過ぎた頃天候がくずれ、暴風雨模様の日が何日か続いた。大雨があり、大風があった。そして久しぶりに青い空が見られた日、半島から急使が派せられて来た。百済王豊璋からの使者であった。
── 敵軍の動きは漸く活発になり、わが王城の地をかんとするものの如くである。我は王城を出でて、 錦江きんこう河口の要地白村江はくすきのえに拠らんとす。
そういう使者の報告であった。豊璋が?留城しるさしを離れることは、これで二回目である。白村江が要地であることは明らかであるが、そこへ百済の本軍が移って行くということは、きかなる作戦に依るものであろうか。?留城はからになり、闘わずして王城の地を敵手にゆだねることになる。しかし、豊璋からの報告を批判している時ではなかった。既に豊璋はこの報告通りの行動を起こしている筈であった。
三、四日経って、また豊璋からの使者がやって来た。
── わが王城の地 ?留城は敵の囲むところとなる。わが主力は白村江へ移動せるも、既に大唐の軍船は錦江河口を埋め、軍船は日々その数を増しつつあり、戦雲甚だ急、筑紫発遣の全兵団の急遽きゅうきょ白村江に到るを望む。
豊璋は、ここで予想した如く闘わずして王城の地を敵手にゆだねてしまったのである。勿論?留城にも留守軍がっており、それ故に敵軍の囲むところとなったという報告であるが、これが敵の手中に落ちることは時日の問題であるに過ぎない。
豊璋はわが軍の白村江集結を要望して来たが、実際そのようにしなければ、豊璋の率いる百済の本軍は、そこに既に集結している大唐の軍に立ち向かうことは出来ず、と言って?留城にあった場合とは違って、ひと度陸からの新羅の攻撃を受けるや、たちまちにして潰え去ってしまうこと必定であった。
豊璋の軽率極まる行動が、新羅に於いて朝に一城、夕に一城を抜いている第二回派遣軍を、そこから急遽白村江へ移動させなければならなくなったのである。こうなると、好むと好まないにかかわらず、彼我の決戦は海上において行わなければならず、しかも、大唐の軍船はすでに錦江の河口に布陣を終わってしまっているのである。
筑紫本営では直ちに転戦している第二回派遣軍に対して、そこを捨てて白村江に急行、百済本軍に合流するようにという指令を出した。勿論豊璋からの要請は筑紫を経ずして半島派遣軍にも伝えられ、わが兵団はいち早くそのような行動を取っているものと思われたが、それとは別に、筑紫の本営は筑紫の本営としての措置を取らずにはいられなかった。今や筑紫の本営に於いては、豊璋の言うことも、為すことも、誰一人信用している者はなかった。
「豊璋は第一に福信を斬り、第二に王城を棄てたのである」
一番憤ったのは大海人皇子であった。初めから豊璋を信用していなかっただけに、こうなるのは最初から判っていたことではないかという言い方であった。これに対しては中大兄皇子も鎌足も一言もなかった。
「しかし、海上に於いて雌雄を決することは、結局はわが軍もまた望むところでありましょう。未知の山河を決戦の場に選ぶより、当然戦闘は有利に展開するに違いないと思われます」
鎌足は言った。こう言わないと中大兄皇子の立場もなかったし、自分の立場もなかった。が、またそれは必ずしも負け惜しみばかりとも言えなかった。実際に出陣前の水軍の訓練は日夜烈しく行われていたではあるし、水軍の活用に依って東北の夷族いぞく平定に大きい勲功を樹てた阿倍比羅夫も、後軍の将として半島に出陣していた。こういう時になると、誰の心にも阿倍比羅夫の存在が大きく浮かんで来た。
「阿倍比羅夫は奇襲を得意とする武将である。恐らく既に白村江の会戦に備えて、己が船団の布陣を終わっているのではないか。ここ暫く阿倍比羅夫が率いる後軍からの連絡が絶えているが、それはそのようなことを物語っているのかも知れない」
そのようなことを言う朝臣もあった。急に阿倍比羅夫に対する期待は大きくなり、いったん期待を持ち出すと、その期待は際限なくふくらんで行った。
2021/05/21
Next