~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (5-01)
八月もあと二、三日残っているという時になって、港附近にたむろしている兵団は、極く一部のものを除いて、ことごとく他に移された。これまでは、兵団のほかに徴用された労務者もおびただしい数の者が港附近に毎日のように姿を見せていたが、そうした者たちの姿もぴたりと見られなくなった。
筑紫の港は突如として、極くわずかの要員を残して、がらんとした無人の港に変わってしまったのである。なぜこのようなことになったかは、誰も知らなかった。ただ一部の者だけが、こうした措置を取る指令が中大兄皇子から出たということを知っていた。しかし、そうした者たちも、なぜこのような措置を取られねばならにかということは知らなかった。港は急に閑散としたものになり、港湾を埋めている潮の動きが、にわかに疎々うとうとしくなったように思えた。毎日のようにどこからか入って来ていた食糧や兵器を運搬している船も、ただの一そうも入って来なくなった。そうした船は、どこか近くの他の港へ廻航させられているということであった。
九月一日のことである。港湾には波が立っていた。白い波頭が到るところで砕け、潮と潮とは互にからだをぶつけ合っている。港に残っている僅かの要員たちの眼には、船の一艘も居ない波だけが流れている潮の拡がりが、何となく不気味に見えていた。
二人ずつの兵が幾つかある船着場のそれぞれに配されていた。半島から連絡にやって来る船を見張っているのが、兵たちの役目であった。
「どうして、筑紫の港をこんなにしてしまったのか」
ある船着場で一人の兵が言った。
「半島から兵団が帰ってくるためだと思うな。第一回、第二回の派遣軍の兵団が一度に帰って来るとなると、港をこのようにしておかねば、入りきれまいがな」
他の一人が分別顔に答えた。
「それにしても、港から一艘残らず船を追い出してしまうことは仕方ないとしても、陸に居た兵団まで他に移す必要なないだろう」
「上陸したら、すぐ屯営できる空地を作っておかねばならぬからだ。その時になって、右往左往するのを、あらかじめ防いでおこうという算段からだ」
「そうは言うが、何もこうまで港を空っぽにする必要はあるまい。いまわれわれのように、この港に残っているのは全部数えても三十人にはなるまい。大兵団が入って来てみろ、俺たちだけでは何も出来ないじゃないか。連絡の仕事だけでも、俺たちの手には負えぬだろう」
ここで二人の兵は急に黙ってしまった。いぶかし気に問いを発している方も、上司の命令を素直に解しようと努めている方も、ぷっつりと言葉を切った。がらんとした港湾の入口に、一艘の船が入って来たからである。兵船である。二人の兵はすぐ上司に連絡した。半島から派せられて来た船に違いなかったからである。
船は波が荒いためでもあったが、容易に近付いて来なかった。少なくとも二、三十人は乗れる兵船らしく見えたが、それは港湾の入口にしばらく漂うように浮かんでいた。そうした船の動きが、いつもの使者の船とは少し異なって見えた。
二人の兵は上司に連絡すると、またもとの位置に戻った。二人の兵が見張りしている所から少し隔たっている幾つ目かの船着場から、小船が二艘出て行った。明らかに港湾の入口に漂っている船の動きがただならずに見えたので、その様子を見の行く監視の船であった。その船もまた、潮の上を高くい低く揺れながら動いて行った。やがて二艘の船は港湾の入口に達し、そこに漂っている何倍か大きい船の左右の舷側げんそくにぴたりと横づけになったが、暫くそのままで、三艘の船は揺れ動いていた。その三艘の船がそこで何をしているか、波止場に立っている二人の兵には見えなかった。
2021/05/22
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