~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (5-02)
暫らくすると、三艘の船は動き出し、それがこちらに近付いて来るのが判った。二人の兵はその三艘の船がどの船着場に入って来るか、大体の見当を付けて、その方へ駈けて行った。船を波止場につなぐことが、この兵たちに課せられている仕事でもあったからである。
間もなく二人の兵は、問題の兵船が迎えに行った小船二艘に引き綱で引かれて来るのを見た。
兵たちは忙しくなった。それぞれの小船から波止場に飛び降りた数人の兵たちと一緒になって。兵船を波止場に繋ぐ作業に取りかからねばならなかった。そして兵船を船着場に繋ぎ終えてから、初めて二人の兵は、問題の船からただの一人も降りて来ないのを知った。
「なんだ、から船か」
兵の一人が言うと、
「ばか!」
と、その船を引っ張って来た兵の一人から怒鳴どなられた。
「よいく大きな眼をあけてみろ。これがからっぽか、からっぽでないか、とくとあらてめて見るがよかろう」
そこで二人の兵はかれて来た兵船へ近付いた。そして舷側に じ登り、その内部をのぞき込んだ。
「なんだ、これは!」
「なんだとは、はなんだ。船の中へ入ってみろ」
そこで二人の兵はその兵船の中へ入った。足を一歩踏み入れたとたん、その場に棒立ちになった。屍体したいが二個転がっている。甲冑かっちゅうまとった兵の屍体だった。明らかに味方の兵である。
「どうした、これは」
「どうしたも、こうしたもあるもんか。この亡者たちを乗せて、船が勝手に港へ入って来たまでのことだ」
二個の屍体はいずれも申し合わせたように、何本かの矢を受けていた。その時、
「おい、また船が入って来た」
誰かが叫んだ。見ると、港湾の入口にまた一艘の船が姿を現している。前よりずっと小さい船だった。この船もまた、前の船と同じように、港湾の入口の辺りでただ漂っているように見えている。
「こんどは、お前ら、行ってみろ」
そう言われて、二人の兵は小船に乗った。しかし、こんどは港湾の入口まで漕いで行く必要はなかった。船は向こうからこっちに近付いて来た。潮に揺れながら、潮まかせのはなはだ自主性のない近寄り方であった。
「誰も漕いでいないじゃあないか」
一人が言った。
「いかにも」
他が答えた。二人は互に顔を見合わせた。不気味なものが二人の身内を走った。
「おい、近寄って来るぞ」
確かに人の姿の見えない船は近寄って来つつあった。どうもさっきと同じように亡者の船であるらしい。すると、漕ぎ手は、その船をその方に近付けることは見合わせて、反対にそれから離れようとした。
「近寄って来る、近寄って来る」
一人が言った。
「畜生め、亡者などにつかまってたまるか」
漕ぎ手は必死だった。大きく船の方向を変えた。しかし、人の見えない船もまた、それにならって方向を変えた。
「追っかけて来るぞ」
恐怖が二人の兵を呑んだ。
「掴まって堪るか」
「もっと早く漕げ」
「これ以上速くは漕げぬ」
その言葉は悲鳴に近かった。波止場の方で見ている限りは、二艘の船は同じ間隔を保って、徐々にこちらに近付いて来るように見えた。だから、先刻のように一艘の船が他の一艘の船を引綱で引張って来つつあるように見えた。
2021/05/22
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