~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (5-03)
二艘の船はひどく遠廻りをしながら、それでも船着場へ入って来た。船から飛び降りて陸地へ上がって来た二人の兵の顔には血の気というのはなかった。人の姿のない船もまた、船着場のそばで追跡することをやめた。騒ぎは間もなく大きくなった。その船には誰も乗っていなかった。板子一面に血潮の流れたのが黒々とついている。
「あっ、また入って来たぞ」
兵たちのすべてがぎょっとした。確かにまた一艘、船が姿を見せている。誰も尻込みして、その船を迎えに行こうとする者はなかった。いかし、今度は迎えの船を出す必要はなかった。船は自分からこひらの船着場を目指してやって来た。波止場の兵たちは一ヵ所に固まって、不気味な思いでその船の動きを見守っていた。
すると、船着場に着いた兵船からは、二人の兵が降りた。いずれも甲冑に身を固めており、亡者ではなく、生きた兵たちであった。二人ともひどく疲れていた。船着場に降り立つと一人はその場に半ば倒れるようにして坐り込み、一人はかろうじてその場に立っているように見受けられた。
この時になって、港の要員たちは己が任務を思い出し、その方に駈け寄って行った。
「注進!」
立っている方は、それだけ言って、あとは、連れて行くべき所へ連れて行けというように手を振った。
「使者!」
倒れている方も言った。波止場の兵たちは、二人の使者を抱きかかえるようにして上司のもとへ運んで行った。上司は、
「使者が派せられて来たことは口外してはならぬ。汝らは一歩たりとも、港から出てはならぬ」
それから上司は更に上の役人の許へ二人の使者を連れて行った。すると、今度は立場が逆になって、使者を伴って行った役人は、いま自分が兵たちに言ったと同じ言葉を、自分が聞かなければならなかった。
二人の使者は、何人かの役人たちの手を経て、一人ずつ中大兄皇子の前に引き出された。皇子のほかには誰も居なかった。
白村江はくすきのえの会戦は、ことごとく味方に不利、わが四百余艘の兵船は、唐の兵団に包み込まれ、その大部分が潮の中に沈みました」
使者は言った。
「いずくの兵団に属する者か」
中大兄皇子がくと、
朴市田来津えちのたくつの本営に属する者でございます」
「田来津の船団は未だ健在か」
「尽くが海に沈みました」
「田来津は」
ともへさきの方へ廻すことも出来ぬほど敵味方の船が相打つ乱戦の中に、敵兵をあまた倒して討死いたしました」
「前軍は ──?」
須臾しゆにして破れました」
「中軍は ──?」
「尽くの兵がおぼれ死にました」
「後軍は ──?」
「兵らよく闘いましたが、これまた尽く潮の中に沈み、ために海面は一面にあかく染まりました」
「よし、休養せよ。敗戦のことは一言も何人にもらすな」
中大兄皇子は言った。次にもう一人の使者が連れて来られた。今度もその座には二人に他に誰も居なかった。
戊申つちのえさる の日(二十七日)、のことでございます。前軍は後着の軍の到るのを待つ間がなく、大唐の軍とあい闘いました。戦況は味方に不利で、わが軍は退きました」
「───」
己酉つちのととりの日、つまりその翌日のことでございます。後着の軍は参りましたが、戦列の乱れたままで、いっせいに唐の船団に襲いかかりました。誰の眼にも勝味のないつたない戦の仕掛け方でございました。果たして、敵の船団に右からかれ、左から捲かれ、ついに陣容を建て直すことの出来ぬままで破れました」
「よし、休養せよ、敗戦のこと一言も何人にも洩らすなよ」
中大兄皇子はまた言った。このようなことがあるのではないかと思って、中大兄は敗戦のうわさ巷間こうかんに拡めぬように、筑紫の港を無人の港にしておいたのである。それにしても半島派遣軍の尽くが海に沈んだとあっては容易ならぬことであった。
中大兄はすぐ鎌足をよんんで、白村江の敗戦を告げた。さすがに鎌足も顔色を変えたが、
「たとえ兵船の尽くが海に沈んだと申しましても、十に一つはこの筑紫へ落ちて参りましょう。或いは十に二つかも知れません。そうした兵を救うために出来るだけのことを為さねばなりません。すべては、そのあとのことでございます」
「すべてと申すのは」
「さればでございます。勝ちに乗じて、敵はわが海域に姿を現しましょう。出でて闘うか、防ぎ闘うか」
「よし、汝の言うようにすべては後のことだ。先ず破れて逃れ来る兵たちを救え」
中大兄と鎌足は同時に立ち上がった。一刻も安閑としていられる時ではなかった。半島派遣の大船団は形跡ないまでに大唐の軍の為に潰滅かいめつさせられてしまったのである。
2021/05/23
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