~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (5-05)
九月の初旬から中旬、中旬から下旬へと、一日一日は飛ぶように過ぎて行った。
ある日、中大兄皇子は行宮かりみやの廻廊で渡り鳥の大群が空をおおうようにして渡るのを見た。何の鳥か判らなかった。鳥の渡るのも大群の移動となると異様なながめであったが、中大兄はやはりそうしたものから、いつか秋が深くなっているのを感じないわけには行かなかった。このような国家怱忙そうぼうの間にも、秋は深まり、秋は去ろうとしている。そんな思いを持った。大和へ行った鎌足からはまだ連絡はなかった。中大兄は久し振りで大和のことを思った。日数をくってみると、まだ鎌足からの連絡のあろう筈はなかったが、それでもそのない筈の連絡がしきりに待たれる気持だった。
このような大和への思いをせるような余裕を持つことが出来たのは、明日にも思われた唐軍の来襲が今日まで延びているためであった。今日まで延びていると言っても、ただそれだけのことで、今夜にも筑紫の海浜に敵軍を迎え撃たねばならぬかも知れなかったが、それにしても、中大兄は久しぶりで鳥の大群が海を渡るのに眼を投げるだけの心のゆとりを持つことが出来たのであった。
中大兄皇子はふと身近に人の気配を感じて振り返った。額田が頭を下げて立っていた。
「久しぶりだな」
中大兄皇子は言った。何年も会わぬ額田に会ったような気持だった。
「この前会ったのは」
「お庭で鬼火に取り巻かれました夜でございます」
「そうか、あの夜以来か ── 額田も疲れているな」
中大兄は額田の顔が別人のように疲れているのを見た。
「皇子さまがお疲れになっていらっしゃいますだけ、額田も疲れております」
額田は言った。
「そう、中大兄はいま疲れている。が、額田は疲れるには及ばぬ」
「そんなことはございませぬ」
「中大兄は疲れている。疲れなければならぬ立場に置かれている。── 汝は違う」
すると、
「皇子さまがお疲れになっていらっしゃいますのにどうして額田が疲れないでおられましょう。皇子さまの御心の内はそのまま額田のものでございます。皇子さまがお眠りになれぬ夜々は額田にも眠れぬ夜々でございます。皇子さまが、ほっとなさると、額田もまたほっとします。皇子さまは久しぶりにいま、ほんの僅かお苦しい思いからお逃れになりました。額田も同じでございます。皇子さまの御心の内は、小笹おざさの揺れほどのことも額田には判ります。それで、いまおそばはべったのでございます」
額田は言った。それに対して中大兄皇子は何も言わなかった。そして暫くしてから、
「── いつか額田に、半島の戦捷せんしょうの歌を民の心でうたってくれといったことがあったな」
「はい」
「残念ながら、それは夢になってしまった。ああ、戦捷の言祝ことほぎを民の心で詠ってもらいたかった! が、今となっては、それもかなわぬことである。もう民に代わって、民の心で詠って貰うことは、中大兄の生涯にはなさそうだ」
「何を仰せられます!」
額田は言った。中大兄皇子の心から大きい夢が消えていることが悲しかった。あとの言葉は続かなかった。続けることが出来なかった。
すると、また中大兄皇子は口を開いて、
「いま、額田は中大兄の心の内はどのようなささいなことでも判ると言った。これからは中大兄の心の中を額田に詠って貰うことにするか」
中大兄は言った。多少自嘲じちょう的な言い方であった。額田は民の心でなく、中大兄の心で、いまの中大兄の苦しみや悲しみは、いくらでも自分の心として詠うことは出来た。おそらく夜の潮のように、苦しみや悲しみが大きく連れ動いている歌が生まれるであろう。しかし、額田は言った。
「世の人々の心で皇子さまの大きいお仕事をたたえる歌を詠わせていただきとうございます。そのために、額田は生れて来たのでございます。いまつくづくそういう気持がいたしております」
額田は言った。本当にそのような使命感を持ちたかった。そうでなければならぬと思った。額田はすぐ中大兄皇子の傍を離れた。中大兄は疲れている。その疲れを少しでも軽くするためには、中大兄は一人でいなければならぬとと思った。今の中大兄にとっては自分が傍についていることは何のちからにもならない。今の中大兄に一番必要なことはおそらく一人になっていることであろう。額田はそう思ったのである。
その一人になった中大兄皇子のもとに、額田と入れ代わりに港に派している兵団からの連絡兵がやって来た。
「ただいま、海上に何そうかの兵船が見えて参りました」
「なに!」
中大兄は表情を改めて言った。
「敵方の船でなく味方の船団と見受けられますが、万一に備えて兵は配置を終わりました」
使者はそう報告した。それから程なく本営は上を下への大騒ぎになった。中大兄は十数人の侍臣をしたがえて望楼へのぼって行った。そこへまた、追いかけるようにして使者がやって来た。
「半島から落ちて来た味方の兵船でございます。兵船からそういう連絡の船が派せられて参りました」
2021/05/23
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