~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (5-06)
中大兄が望楼へ上がった時には、日はすっかり暮れて夜が来ようとしていた。既に港一帯は夕闇ゆうやみに呑まれていて、王宮の望楼からではその問題の船団は見えなかった。
そのうちに、港には火がたかかれ始めた。初めはあちこちに一つ二つというように、明らかに篝火かがりびと思われる灯が見えていたが、間もなくその燈火の数は多くなって行った。動かないのは海岸に焚かれている篝火であり、動いているのは船上の上にともされている灯であろう。
また使者がやって来た。
「船団は以外にたくさんの船から成っております。戦傷者を満載していると思いますので、それを収容する手筈を調えております」
「よし、行く」
中大兄は言った。自分も港へ降りて行こうと思った。敗残の兵団にしろ、それが意想外に多いということは、中大兄の気持を明るいものにした。少し遅れてやって来た大海人皇子の気持も同じらしかった。
「戦闘に破れようと、傷つこうと、ともかく、生命いのちあって筑紫のこの土を踏んでくれれば」
大海人皇子は言った。
二人の皇子を取り囲む一団が港の波止場に着いた時は、周囲の人の顔も判別し得ないほど辺りには夜の闇が深く立ち込めていた。篝火が焚かれている附近だけにそこらを動き廻っている兵たちの姿が見えていた。
船団は沖合に碇泊ていはくしているらしく、その辺りに沢山の燈火が揺れ動いている。それぞれ燈火をともした哨艇しょうていが群がっているのである。兵船はそこから一艘ずつ哨艇に案内されて波止場の方へ導かれて来るとおうことであった。
最初入って来た兵船からは数十人の兵が降り、その後からおびただしい数の女子共が降りた。それが百済くだらの女や子供たちであることは明らかだった。次の兵船からも数十人の兵が降り、そのあとからは、これまた夥しい数の百済人が降りた。いずれも民衣をまとっているところから見て、兵でないことは明らかだった。
次の船からも、その次の船からも日本兵は数十人ずつしか降りなかった。それに続いて降りて来るのは百済人ばかりであった。百済人は多かった。男もいれば女もいた。
中大兄の所へ使者がやって来た。
「これからなお十数艘の船の下船が行われますが、これからの船には一人の日本兵も乗っていないとのことでございます」
「なに一人も! 兵はこれまでに降りた者だけか」
「そのようでございます」
「ほかに引き揚げて来る船はないか」
「これが半島から引き揚げて来たすべての船だということでございます」
「うむ」
中大兄は言った。篝火の光が中大兄の眼の中で一つに固まったり、無数に離れたりしている。丁度いつか王宮の庭で見た鬼火に似ている。
「うむ」
中大兄皇子は苦しいうめき声を口から出した。
2021/05/25
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