~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
鬼 火 (5-08)
中大兄皇子、大海人皇子は毎日のように半島の戦線から帰って来た将兵たちを召して、半島の情勢を知ることに努めた。半島遠征軍の主だった者はほとんどみな白村江はくすきのえの会戦で戦死しており、帰還した将兵たちの中には戦局を総合して説明出来るような者は殆ど居なかった。いずれも本営からの指令を待たないで、自分たちの一存で半島の戦線を捨てて来ており、本来ならその罪を問われるべき立場にある者ばかりであった。しかし、今の場合、そのようなことを言っても始まらなかった。それどころでない事態が覆いかぶさろうとしている。
兵たちの話やこんどの船で引き揚げて来た少数の百済軍の指揮者たちの話を総合してみると、半島の情勢は絶望的であった。
百済王豊璋ほうしょうが棄てた?留城そるさし新羅しらぎと唐の連合軍に取り巻かれたのは八月十七日であった。そしてそれから十日後の二十七日に白村江の戦端は開かれている。最初の戦闘でわが軍はz不利であったが、二十八日に敢えて決戦を挑んで敗れ去ってしまったのである。最初の戦闘が不利である以上、決戦を避けて後日を期すのるのが作戦の定石であったが、それを為さなかったのは、?留城が敵軍の囲むところとなっていたためであろうと思われた。?留城を敵手に渡すことは百済全体を失うことを意味するので、たとえ危険を冒しても、白村江における戦闘を決戦へと持っていかねばならなかったのである。こうした点から考えても豊璋の軽率な行動が大きな敗因を作っていた。その豊璋は白村江の敗戦直後、九死に一生を得て、高句麗こうくりを目指して逃れ去ったということであった。
白村江の会戦で海に沈むことを免れた日本の兵船が半島の南部に集結したのは九月二十四日であった。?留城は既に七日に落ち、百済の民の中で日本へ逃亡を望む者はみなそこに集まっていた。そして日本の兵船は百済の民たちを収容して、即日そこを発航して来たのであった。
百済人の中には百済再興軍の指揮者級の者も何人か混じっていた。その一人が言った。
── ?留城も落ちました。百済の名はついに絶えてしまいました。兵墓の所へ、どうして再び行くことが出来ましょう。
その言の如く、確かに祖国はなくなってしまったのであった。
しかし、中大兄、大海人両皇子が最も胸を痛めたのは、敵軍の手中に落ちた ?留城にも、日本の将兵が拠っていたと聞いた時である。白村江の会戦で討死した者は、何百雙という兵船が相撃つ大会戦でたおれたのであるから、まだ諦めることは出来たが、?留城にこもっていた将兵は、全くの孤立無援の立場での戦闘であった。討死したか、捕虜となったか、その点は判らないが、いずれにしても、初めから勝利を期待出来ぬ苦しい籠城戦ろうじょうせんであったろうと思われた。
半島からの敗残の船団が帰還してから十日程経った頃、飛鳥あすかの鎌足から使者が派せられて来た。半島の事情が明らかになり、当分の間半島の権益の回復にいかなる方法もないと言うのであれば、敗残の兵の収容の出来次第、筑紫の本営を引き揚げて、飛鳥へ帰還すべきである、そいう意見が具申されて来た。鎌足はそれ以外のことには触れていなかったが、中大兄にはその言外の意味をはっきりと読み取る事が出来た。鎌足は自分に都にかえれと勧めて来ているのである。そういうことを必要とする情勢が都に到来しているか、到来しつつあるのである。
2021/05/27
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