~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
水 城 (1-01)
中大兄皇子にとって本当の苦難の日は、筑紫つくしから大和やまとへ引き揚げてからやって来た。鎌足が筑紫の皇子のもとに、一日も早く都に還るようにと使者を派して寄越したことは、理由ないことではなかった。
難波なにわの港には、鎌足とわずかな朝臣が出迎えただけであった。皇子の一行は即日難波から飛鳥あすかへと向かったが、三年ぶりで見る大和の山野は、心なしか敗戦の責任者中大兄皇子にはよそよそしく感じられた。皇子の帰還は一般には公表されていなかったので。田圃たんぼで働いている百姓たちが、武装兵で固められて行進して行く見慣れぬ一団の正体を知るはずはなかったが、それにしてもその関心のなさは異様であった。くわすき をとる手を休める者はなかった。街道をいかなる者が通ろうと、それは自分たちには全く関係のないことだ、あたかも全身でそう言っているように見えた。
中大兄皇子を奉ずる一団は夜をこめて行進し続けた。本来ならどこか豪族の館に一泊する筈であったが、そういうこともなかった。すべては鎌足の采配さいはいのもとに取り仕切られていた。途中篝火かがりびをいて集団を迎える 聚落しゅうらくもあったが、それはほんの数えるほどであった。。
都も、よそよそしさという点では、また同じであった。半島作戦の本営の所在地筑紫の持った荒々しさに慣れた皇子の眼には、都大路のたたずまいも、そこを歩いている男女の姿も、尽く冷たく取り澄まして、気心の知れぬ意地悪いものに見えた。
王宮へ入ると、長途の旅の疲れをいやすい間もなく、中大兄皇子は鎌足と二人だけの時間を持った。
「汝の言うように都へ還って来た。為さなければならぬことは沢山あろうが、先ず最初に何を為すべきか」
中大兄はいた。
「なるべく早く大海人皇子をお呼び還しになることでございましょう」
「それほど中大兄は信用がないか」
中大兄皇子は真顔で言って、少し間を置いてから笑った。
「半島に出兵し、それが敗戦に終わりました以上、信用のないのは当然でございましょう。もはや皇子がお出になりましても、鎌足が出ましても、大和を初めとして各地方の豪族たちを納得させることは出来ないと存じます。大海人皇子はこれまで政治の表面にはお立ちになっておりませぬ。豪族たちに対すること一切、大海人皇子のお名前で取り仕切ることが肝要かと存じます」
「すると、筑紫はどうする?」
目下のところ、外敵の侵寇しんこうより、内政を調ととのえることの方が差し迫った問題かと存じます」
いつ、唐の大軍が筑紫に迫らないとも限らぬ現在、それよりもっと急を要することが内政の問題にあると言うのであれば、もう何を言う必要もなかった。
「よし、それならば、そのようにしよう」
中大兄皇子は言った。
「これから苦しい日々がお続きになりましょう」
「承知している。苦しい日々はこれまでも続いて来た」
「これまでの苦しみなどは知れたものでございます」
わかっている」
「皇子をおうらみする声は天下に満ち満ちましょう」
「すでに満ち満ちている」
「いいえ、これまで以上に ── 」
「判っている。耐えられぬことはあるまい」
「そのお覚悟を、しかとこの際。── それがお出来になれば、何で外敵の侵寇などおおそれになることがございましょう」
2021/05/27
Next