~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
水 城 (1-02)
それから、鎌足は、かれたように言葉を続けた。低い声になったり、高い声になったりした。時には低くつぶやくような口調になった。低い口調になると、鎌足は頭を深く垂れ、眼をつぶった。もし中大兄皇子でなかったら、鎌足は泣いているのではないかと思うかも知れなかった。が、中大兄には判っていた。それはいつも中大兄の心をその底から揺すぶらずにはおかぬ鎌足の悲願の表白であったのである。
「どのようなことでも、お耐えになれば出来ないことがありましょうか。新政をお布きになりましてから、長いようでも、まだ二十年に足りません。いまは試練の時期でございます。半島の出兵がもう十年先のことでございましたら、おめおめ今度のような敗戦の汚名を着ることもなかったと存じます。兵も船も、筑紫一帯の港々に満ち満ちていたことでございましょう。白村江はくすきのえで破れましても、次々に援軍は繰り出せます。いや、白村江の会戦そのものがなかったと思います。いっきに新羅しらぎ掃蕩そうとうする兵力がなかったために、白村江で闘うような破目に追い込まれてしまったのでございます。十年早うございました、十年、それが残念でございます。皇子の御不運というものでございますが、今となっては、それも致し方ありません。今度の敗戦で民の心も離れましょう。豪族、氏族たちの新政批判の声も高まりましょう。そうしたことのために、新政は数年の後戻りを余儀なくされると思います。残念でございますが、それも致し方ございませぬ。数年前に戻して、またそこからやり直しでございます。が、そのようなことが何でありましょう。民の一人一人が新政の恵みに浴し、豪族、氏族がその坐るべき場所に坐って、一つの国の体制の中に繰り込まれ、国の力が満ちあふれる時節が数年ほど遅く到来することになっただけのことでございます」
鎌足の言葉はこのあたりから急に低くなり、前に中大兄皇子が居ることも忘れたのではないかと思うように、異様な光を帯びて来た眼は宙に向けられる。
「中央の豪族、地方の氏族たちの心を手なずけねばなりませぬ。彼等から奪い取った物を、ひとまず分ち与えましょう。位も与えます。民をたくわえる権利もその一部を返します。これ以外に、動揺している豪族、氏族たちの心を押さえることは出来ません。これを為すために大海人皇子に前頭に出ていただきます。そうしておいて、彼等の強力を得て、兵を徴します。外敵に備えるためにどうしても兵は必要でございます」
「更に兵を徴する?!」
「それがお耐えにならねばならぬことの第一」
「───」
「辺境にはとりでを造らねばなりません。人もれば、財物も要ります。民から取り立てる以外、仕方ありません」
「民の怨みの声が聞こえるようだな」
「それがお耐えにならねばならぬことの第二」
「───」
「そして、また、そう遠くない時期に都をうつさねばなりませぬ。外敵を迎える場合、必ずしも大和は恰好かっこうな王城の地とは申せませぬ。もっとのびのびと作戦を展開できる場所を求めねばなりませぬ」
「さぞ、また、鬼火がやたら出るだろうな」
「それがお耐えにならねばならぬことの第三」
「───」
「そして都をお遷しになると同時に、皇子は御位にき遊ばさねばなりません。もうこれ以上お延ばしになることは出来ませぬ」
この時だけ、鎌足は顔を上げた。
「皇子が天子の御位にお即きになる。大海人皇子がそれを補佐なさる。──それは何年先のことになりますか。が、いすれにしましても、そう遠くない日のことでございます。その時まで苦しい日々が続くことでございましょう。何事眠りを瞑り、耐え、その日に向かって一歩一歩進んで行かねばなりません」
「よし、すべて汝の言うようにしよう」
「臣は皇子がお考えになっていることをただ代わって申し上げただけのことでございます」
鎌足は言った。が、鎌足は心にもないことを言ったわけではなかった。聡明そうめい な中大兄が筑紫からの船旅で、考えに考えたに違いないことを、多少、自分流に整理して言ったまでのことであった。鎌足はそう考えてもおり、そう信じてもいた。
実際にまたその通りであった。中大兄は中大兄で、自分の心の中にしまわれていた考えの一つ一つが、鎌足によって、次々に引き出されて行くことに、この時ほど満足を感じたことはなかったのであった。
この飛鳥の王宮の夜は、中大兄皇子と鎌足にとっては終生忘れることの出来ぬ特殊な夜であった。白村江の敗戦の責任者たちが、新しい苦難に立ち向かって行く決意を固めた夜であったからである。
2021/05/28
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