~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
水 城 (1-04)
中大兄皇子、鎌足を中心とする敗戦責任者たちは、豪族たちの不平を除き、民を敗戦意識から立ち直らせる新しい政策を打ち出さねばならぬ立場に追い込まれていた。大海人皇子が筑紫から帰還した翌月、皇子の名にって、二つの新しい施策が天下に宣布された。
一つは大氏、小氏、伴造とものみやつこという風に幾つかのその身分で区別されている豪族の主権者たちに、大刀、小刀、手楯たて、弓矢を与え、その主権者たちのために民部かきべ家部やかべを定めた。つまり豪族の主権者たちは自分の一存で徴用も徴税も出来る部民を持つことになったのである。大化の改新に依って、国家のものとして一度取り上げられたものを、その全部ではなかったにせよ、ともかく、もう一度自分のものとすることが出来たのである。これは豪族たちが一番強く望んでいたもので、豪族たちの不平を除く上に、これ以上の贈り物はなかったのである
それからもう一つ、これまで十九階に分かれていた階名がやされて二十六になった。これに依って冠位の等級がたくさんになり、煩瑣はんさにはなったが、しかし、とかく不平も持っていた下級貴族や、氏族たちも、官人として登用される道が大きく開かれることになったわけであった。
こうした施策が豪族や氏族たちの心をとらえたことは勿論であるが、それがまた大海人皇子の名に依って宣布されたことにも意味があった。何となく若い弟の皇子に依って新政の行き過ぎは改められ、朝廷中心の政治が大きく変って、地方の氏族や貴族たちの希望や主張も、これからどしどし政治の上に取り上げられ、反映して行くような思いをいだかせられた。
そしてこうした内政の新施策に平行して、新政の首脳者たちが外敵侵寇しんこうに備えて辺境の防備を強化したことは勿論である。翌三月、かつ豊璋ほうしょうと共に入朝し、そのままこの国に留まっている善光王を難波に住まわせることにした。国も亡び、一族も亡んでしまった百済くだら王家の、今はかけ替えのないただ一人の遺族であった。
この月のある夜、光の強い大きな星が北方に流れた。これを目撃した人は多く、いかなるしるしであるか、このことが巷間の噂となった。しかし、これを取り分け凶事のの兆と考える者はなく、従って噂も格別暗いものではなかった。流星の噂の最中かなり強い地震があり、都の男女はみな家から飛び出し、宮城でも、侍臣侍女のことごとくが庭に降り立った。本来ならこの地震と流星のことは関連したこととして受け取られ、新しい流言がちまたに飛ぶ筈であったが、そうしたこともなかった。敗戦後何ほどもっていなかったが、この一事から推しても、時代はようやくある落ち着きと明るさを取り戻していたのである。
五月、百済征討軍の鎮將である唐の劉仁願りゅうじんげんからの使者として、唐の役人郭務悰かくむそう対馬つしまにやって来た。筑紫からはすぐそれを報ずる使者が都に派せられて来た。唐使の一行は三十人余りで、それに百済兵百余人を伴った集団であった。
この報を得て、飛鳥の朝廷は動揺し、混乱した。唐の大軍が侵寇して来たと言うのであれば、かねて予想していることではあったが、唐軍の来攻ではなく、少数の兵をしたがえての唐使の来朝であった。唐の兵団を伴わないで、百済兵百人ばかりを随えてやって来たことも、こちらを刺戟しないようにという配慮の上のことと思われた。
筑紫からは最初の使者を追いかけるようにして、二、三日すると、また二回目の使者が派せられて来た。早速役人を対馬に派し、唐使郭務悰等を喚問したところ、朝廷に奉る牒書ちょうしょと献物を持って来ている。一体いかに取り扱うべきであるか、筑紫からの使者はその指令を仰ぐためのものであった。
朝臣の主だった者は直ちに廟堂に集まった。誰にも不気味な事件だった。事を荒立てないように鄭重ていちょうに遇すべきだという意見もあれば、反対に強気の意見もあった。後者の立場に立つ者は、唐使は恐らくこちたの動揺を偵察に来たのである、弱いところを見透かされると、忽ちにして唐兵の来攻するところとなるだろう、この際思い切って毅然てきぜんとしたところを見せるべきであると主張した。強気の意見も弱気の意見も、いかにして唐軍の侵寇から逃れるかということを真ん中に据えている点では、全く同じものであった。
また三度目に、筑紫からの使者が派せられて来た。唐使は大唐国から派せられて来た使者ではなく、唐将劉仁願からの使者である。その実際のことは判らないが、少なくともそういう体裁をとっていることだけは確かである。そういう報告であった。この際、敗戦の国にとって、唐朝からの使者であることが望ましいか、唐将からの使者の方がの望ましいか、これも誰にも判断のつかぬことであった。唐国からの正式の使者の方が不気味であるとも言えたし、劉仁願からの使者の方がもっと不気味であるとも言えた。
2021/05/29
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