~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
水 城 (1-06)
筑紫に大きな水城みずきを築いた。大きな堤を造って内部のほりに水を入れた。そこで敵兵を阻止するための施設であった。堤は延々と何町にも及んだ。また筑紫の海浜地帯の要所要所には城を築き、土塁や石垣を積んだ。
また対馬、壱岐いきの二つの島に烽台のろしだいを築き、辺境防衛の専門の兵と防人さきもりを置くことにした。
烽台を築き、防人を置いたのは、半島に近いこの二つの島だけのことでなく、筑紫にも同じような措置をとった。そしてこの烽台と防人の制度は、次第にこの国の長い海岸線全域へと押しひろめられて行く筈であった。ただ半島に近い筑紫や長門の海浜を先に固めなければならぬには当然なことであった。
かくして、中大兄の称制三年から四年へかけて、国力を挙げて海防のことに当たった。四年の秋八月には長門にも城が出来、筑紫にも大野およびの二城が築造された。そして辺境の防備には、り抜きの将兵が配された。そうした兵たちの任地におもむく姿は、国内のいたるところで見られた。何年か交替の勤務であった。
国防の態勢が曲がりなりにも一応恰好かっこうを整えた時、唐国から使者劉徳高りゅうとくこうが派せられて来た。こんどははっきりと大唐の国の朝廷からの使者であった。従者と兵、合わせて二百五十四人を引き連れた一団であった。対馬に着いたのは七月二十八日のことであり、筑紫の港に入って来たのは九月二十日のことであった。唐使は国書を大宰府だざいふに呈した。
この間、毎日のように筑紫からの使者は都に派せられて来た。こんどは飛鳥政府にも唐使を都に上らせるだけの余裕はあった。
使者の一行が、都に入って来る日は、難波から飛鳥への街道には、何ヶ所かに武装した兵団が配されていた。唐使を警固するためであるには違いなかったが、多少示威の意味も持っていた。
唐使たちは林立したやりの穂先きの前を、厳粛に王城の地へと導かれて行ったのである。都に入ると、兵団の数は更に多くなった。唐使たちはどこへ眼をっても、整列している兵たちのほかには何も見なかった。
唐使たちは十一月から十二月にかけて都に留まった。その間に何回か王宮に伺候した。賜餐しさんもあり、物を賜るための参内さんだいもあった。その度に、唐使たちには、この国がいかに強力に武装され、いかに訓練された精兵を数多くたくわえているかということを肝に銘じて受け取らねばならなかった。
唐使たちが都を離れたのは四年の歳末であった。手厚く、厳粛に、それに加えて威圧的に遇されて帰国の途にいたのであった。一行には何人かの送使がつけられた。
この唐使の来朝に依って、中大兄皇子たちが知ったことは、唐が、日本軍撤収後の半島の経営に於いて、目下幾つかの問題をかかえているということであった。百済が滅亡してしまったあと、新羅は百済の旧地を己が領域として併呑へいどんしようという野心を持っていたが、唐としてはそれを許すわけには行かなかった。唐としては、何も新羅を強大にするために出兵したわけではなかった。また高句麗こうくりをも討たねばならなかったが、それも簡単には行かなかった。高句麗を討つことはいたずらに新羅の発言権を強めるようなものであった。
こうした対外的なことを別にして、この年の事件と言えるものは、二月に間人皇女ほしひとのひめみこほうじたことであった。幸徳天皇の妃であったので、間人太后おおきさきと呼ばれ、中大兄皇子の妹として、朝廷内に重きをなしていたが、三十六、七歳の若さでみまかったのであった。
2021/05/30
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