~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
水 城 (1-07)
年改まると、中大兄皇子の称制五年である。空位のまま、皇太子ひつぎのみことして中大兄皇子が政をとりしきって、いつか五年目の春を迎えたのである。
新春早々、高句麗より使者 能婁のうるが調貢物を持って来朝した。敗戦後初めての高麗からの朝貢であった。白村江はくすきのええきで敗退したわが国に対して、高句麗がいかなる考えを持っているか見当はつかなかったが、これで高句麗の大和朝廷に対する信頼が少なくとも地を払っていないいないことだけは証明されたわけであった。前年の唐使の来朝と共に明るい事件であった。唐と高句麗とは依然として敵対関係にあったので、大和朝廷はその双方からの親善の手を差し伸べられて来たわけであった。唐使劉德高等が帰国したのは前年の暮れである。もし唐使がもう少し滞留を延ばして高句麗の使者と顔を合わせるようなことになったら、異国の使者等に対する大和朝廷の態度はなかなか複雑なものになったが、僅かの日数の違いで、一方が帰ってから一方がやって来たことは、中大兄皇子にとってはしあわせなことであった。
それにしても、高句麗の使者に唐使の来朝を知らせないでおくことは難しく、その点、高句麗の使者の遇し方には微妙な配慮を必要とした。接待には鎌足が当たって唐使以上に厚くもてなした。そして、厚くもてなしておいた上で、大唐国から二回も使者を派して寄越すほどのももを大和朝廷が持っていることを、彼等に納得せしめねばならなかった。鎌足はそてをうまくやってのけた。
三月に、大化の政変時からの功臣佐伯子麻呂連さえきのこまろのむらじの病が重くなったのを聞いて、中大兄皇子は老功臣をそのやしきに見舞った。政変以来二十年苦難を共にして来たことを思うと、感慨深いものがあった。
六月に高句麗の使者能婁は帰国したが、十月に再び高句麗からは貢物を持った使者が派せられて来た。前の使者能婁からの報告に依って、こんどの措置が取られたものと思われた。
この年の秋は、どういうものか再三ならず豪雨に見舞われた。何日かにわたって、都も豪雨にたたかれたが、同じようなことが、東方でも、北陸でも、筑紫でも起こった。丁度収穫時に当たっていたので、諸国の受けた被害は夥しいものであった。中大兄皇子は鎌足とはかって、全国的に租税を免除し、賦役ふえきのため狩り出されている男女は、それぞれの生国にかえした。
田が流れ、牛馬が流れた暗い秋が深まって行く頃、都のねずみという鼠が 近江おうみをさして移って行くという奇妙な風聞が流れた。鼠が群れをなして、都から近江へ移りつつあるというのである。そしてこの鼠の大群の移転は、近く都が飛鳥あすかから近江へ移るきざしであるというようなことが言われた。
実際に鼠が近江を指して移って行くのを見た者があったかどうか判らなかったが、一時そうしたうわさもっぱらであった。そして都中の鼠が引越して、鼠が見られなくなったためか、いつか鼠のことは人の口のに上がらなくなり、専らの噂は遷都のことにしぼられた。
── 近く都を近江に移すそうだ。
とか、
── 都の土木工事は一切中止されているが、それは急に遷都が決まったためである。
とか、いろいろなことが言われた。
遷都ということは朝臣たちにも、民の男女たちにも決して好ましいことではなかった。生活の形を根もとから揺すぶり変えることでもあったし、そのために租税も重くなるに違いなかった。税ばかりでなく、また何年かの長きにわたって、民の男女は新しい都造りのために徴せられなければならぬ。
いかなる理由に依って都をうつさねばならぬか知らなかったが、民たちの立場から言えば、いいことは一つもなかった。遷都を好もしく思わぬ点では貴族、朝臣たちも同じであった。十年前に難波なにわから飛鳥へ遷都したが、その場合と違っていた。難波から飛鳥へ移った時は、ってみれば旧京を回復したようなもので、そのための負担は同じように多かったにしても、大和へ還るということで、心情的には一概に反対出来ぬものがあった。大和は往古から代々、幾つかの王宮が営まれたところであって、謂ってみれば大和朝廷の郷里であった。多くの朝臣たちにとって、ようやあく落ち着いた生活を持ち始めたのに、またいかなる理由で都を他国へ移すのであるか! 遷さねばならぬのか!
朝臣たちも、民の男女も、大和の山々に馴れ親しんでいた。大和以外の自然は、どこも肌に合わなかった。短くはあったが、難波の都に生活した時のことを思うと、人々はぞっとした。今になって考えてみると、よくもあんなところに住んだものだと思われるほど、難波の都は荒れて見え、そこの生活もまた荒れて見えた。
半島の作戦でさんざんひどい目にい、漸くにしていま多少でも生活が楽になったと思うと、また遷都であるか! 朝臣、民の別なく、遷都という言葉は、必ず呪詛じゅそ と共に口から出された。どうしてもこれだけは取りやめてもらわなばならぬという思いがあった。
2021/05/31
Next