~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
水 城 (2-01)
中大兄皇子の称制六年の春を迎えると、巷間こうかんに流れる遷都の噂は、ずっと具体的なものになった。都を遷す先は近江おうみである。しかも近江遷都の時期は非常に早く、今年中にもこの飛鳥あすかの都はからっぽになってしまうだろうというようなことが言われた。こうした噂の根拠となっているものは、おびただしい数の労務者が近江に送られ、そこで都造が行われているからである。
都造りと言っても、これまでにもいろいろな地に離宮の造築の行われたことはあり、半島における敗戦のあとこそしばらく絶えていたが、それ以前は離宮造りなど格別珍しいことではなかったのである。それが、今度の場合は、離宮とは結び付かないで、いきなり遷都と結び付いてしまったのである。
時代は漸く落ち着きを取り戻しているとはいえ、まだ敗戦の痛手から完全に立ち直ってはいず、どう考えても離宮造営の時期だはなかった。離宮を造るくらいなら一つでも多く水城みずくを造らねばならぬ時である。そうしたことが飛鳥朝廷の首脳者たちにわかっていないはずはないだろう。こういう考え方をすると、近江湖畔の宮造りの工事はどうでもただ事ではないといった印象を、この噂を耳にする者たちに与えずにはおかなかったのである。
ちまたでは、どこへ行っても遷都の噂であった。依るとさわると、口々に遷都、遷都と言っていたが、そう言う者の心のどこかには、やはりそんなことがあってたまるかという気持があった。宮造りばかりでなく、町造りも始められたとか、朝臣たちの宿舎としか思われぬものが、何百となく急造されつつあるとか、噂は雑多であった。これまでいかなる流言に対してもすぐそれを取り締まる布令を出す政府が、こんどは全く放任の形であることも、いつもと異なっていて不気味であった。
こうした遷都の噂で巷々が揺れ動いている最中、大海人皇子の妃であった大田皇女がみまかった中大兄皇子を父に、大海人皇子を夫に持った皇女で、そうした関係から宮廷内においても最も自由に振舞える美貌びぼうの女性であったが、大来皇女おおくのひめみこと大津皇子という二人の御子をのこして早逝そうせいされたのであった。大田皇女の遺骸いがいは、斉明天皇のみささぎの前の墓に葬られた。この時、都に滞留していた異国の使者たちもすべて葬列に加わった。寒風の吹きすさんでいる都は、何日か美しい貴人の死に依って悲しみに包まれた。大田皇女のために墳墓造営のことがなかったのは、そのために生ずる民の負担をおもんばかっての中大兄の措置であるというようなことが、これまた噂となって流れた。
これに続いて、前々年に亡くなった間人大后は斉明天皇陵に合葬されることになり、その宗氏もまた百官の朝臣参列のもとに行われた。この合葬も大田皇女の場合と同様に見られた。
民のために間人太后や大田皇女の墳墓造営をさえ思い留まっている中大兄皇子が、どうして遷都の大役たいえきを越すことであろうか、こういう考え方も出来たし、反対に遷都という大事を目睫もくしょうに控えているので、少しでも民の心を和らげるために、このような出方をしたのであるという見方も出来た。
2021/06/01
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