~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
水 城 (2-02)
もう二、三日で三月を迎えるという時になって。突然、近く都を近江へ遷すということが発表された。長い間、もやもやした噂の形で流れていたものが、突然はっきりした現実の問題になったのである。巷は、それから、二、三日、珍しく静かであった。もう遷都のことは噂ではなかった。眼の前に迫っている現実の問題であった。残されていることは、それがいつ行われるかということだけであった。
遷都の発表のあった日、額田女王は宮中に伺候した。遷都に関してこれから何回かにわたって行わねればならぬ神事について、必要な指図を受けるためであった。
額田は冷え込みの烈しい館の一隅で、何刻なんときかを過ごした果てに、漸くにそて中大兄皇子の前に出ることが出来た。
「額田もまた忙しくなるな」
中大兄は言った。
「これから毎日のように、宮中に出仕してもらわねばならぬ。お蔭で、これから暫く額田の美しい顔を見ることが出来る」
「暫くお目にかかりませぬうちに、お口がお上手じょうずになられました」
額田は頭を深く下げたままで言った。
「大海人皇子とは会っているか」
「お目にかかっておりませぬ」
「それなら大海人もよろこぶことであろう。大海人は大海人で、毎日のように額田の顔を見ることが出来る」
額田は、中大兄皇子が心にもないことを口から出しているのを感じていた。自分が取り組んでいる事件が大きければ大きいほど、いつも中大兄皇子は、額田に浮ついているとしか思われぬ態度をとった。いま中大兄皇子には。およそ口に出していることとは異なって、遷都の問題が重苦しくのしかかっているに違いないのであった。
「大海人皇子さまは額田どころではございませぬ。お妃さまがお亡くなりになった悲しみが ──」
言いかけて、額田は口をつぐんだ。太田皇女追慕の悲しみは、あるいは夫である大海人皇子より、父である中大兄皇子の方が大きいかも知れないのである。なぜかそんな気がした。
額田は言った。遷都の時期がはっきりしない限り、それに関する神事も、その予定を立てることは出来なかった。まだ発表になっていない遷都の時期について、額田は中大兄の口から大体のことを知りたかったのである。
「だから、明日から、毎日のように出仕して貰わねばならぬと言っている」
こんどは中大兄皇子は固い表情で言った。
「と申しますと ──」
「都を遷す日は迫っている」
「夏までに」
「夏までは待てぬだろう。── 三月」
「え!?」
と、額田は顔を上げた。もう二、三日で、その三月になろうとしている。
「では、もうひと月ほど先には」
「ひと月の余裕はない。中頃のき日を選ぶ」
もしこの事を知ったら、都はどのような混乱を起こすだろうと、額田は思った。遷都のことは発表になったが、多くの者はまだ大分先のことと考えているのである。すると、
「いつか、額田と、筑紫で鬼火に取り巻かれたことがあったな。もう一度、鬼火に取り巻かれねばならぬかも知れぬ」
「覚悟いたしております」
額田は答えた。あの怪しい鬼火に取り巻かれた何年か前の苦しかった夜の思い出が、今は一種の陶酔感を伴って思い出されて来る。中大兄皇子が持っている苦しさを、自分もまた、分け持っていた。そういう陶酔であった。
中大兄皇子は、今、鬼火に取り巻かれるのを覚悟して、都を近江へ遷そうとしているのである。それにはそれだけの理由があるであろう。中大兄皇子にとっては、近江へ都を遷すことは、是が非でも為さなければならぬことに違いない。巷間では遷都の理由について、いろいろ取沙汰とりざたされており、大和一帯の豪族たちを政治の場から遠ざけるための遷都であるとも言われているし、外敵の侵寇しんこうに備えての措置であるとも言われている。また遷都に依って、人心を一新し、その上で即位のことがあるのではないか、そう言うことも言われている。あるいはその総てが遷都の理由になっているのかも知れない。中大兄皇子のために、鬼火に取り巻かれるのなら、額田はいつでも自分は悦んで鬼火に取り巻かれるであろうと思った。
2021/06/02
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