~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
水 城 (2-05)
神事が一応終わると、土器のさかずきが配られて、神酒が注がれた。この頃から列席者の者たちの心に、しみじみとした思いが流れ始めた。もう何ときも経たずして、この都を離れて行かなければならないのである。おきなとでも言いたい老いた朝臣の一人は、都を棄てる悲しさをはっきりとその面に現していた。翁は絶えず口の中でぼそぼそつぶやいていた。周囲の誰にも、この老人が都を離れることを死ぬほどつらがっていることが判った。
その時、再び楽の音が流れ出した。その楽の音が終わると、それを待っていたかのように、澄んだ高い声が替わった。誰も、その方へ顔を向けなくても、その声を発している主が誰であるか知っていた。額田女王であった。
味酒うまざけ 三輪みわの山
あをによし 奈良に山の
山のに いま隠るまで
道のくま い積もるまでに
つばらにも 見つつ行かむを
しばしばも 見放みさけむ山を
こころなく 雲の かくさふべしや
歌は二回繰り返してうたわれた。
ああ、美しく尊い三輪の山よ、毎日のようにこの都で仰ぎ親しんで来た神います、三輪の山よ。
その三輪の山が、美しい奈良の都を取り囲んでいた山々のあたりに隠れてしまうので、これから新都へ向かう途中の道の曲がり曲がりで、何回でも、よく見て行きましょう。
遠くに眺めて行きましょう。
これほどまでに別れを惜しんでいる三輪の山を、どうして雲が隠すようなことがありましょう。
老朝臣は手を眼に当てたまま、そこから離さなかった。額田の歌の心が老朝臣にはまるで自分の今の思いのように聞き取れたのである。自分もまた、そのようにして、この都を離れ、新都へ向かうであろうと思った。
しかし、額田の歌の心を、己が心として受け取ったのは、この老朝臣ばかりではなかった。一座はしんとした不思議な静まり方をした。
すると、再び、額田の声が響いて来た。
三輪の山を
しかも隠すか
雲だにも
こころあらなも
隠さふべしや
雲よ、なぜ三輪山をそのように隠すのであるか。せめて雲だけにも、思いやりの心は持って貰いたい。どうしてそのように隠すのであるか。
今度の額田の歌声は前よりもはげしい調子で聞こえた。都と別れる悲しい心、三輪山と別れる悲しい心は、急にその都を覆っている雲に対して、三輪山の姿を隠している雲に対して、まるでその雲をらさずぬはおかぬといった烈しい調子に変わっていた。
人々ははっとした。そしてその烈しさが、いつか自分の気持の中に入り込んでいるのを感じた。確かに三輪山は雲に隠されているに違いなかった
── しかし、やがて、必ず雲は霽れるに違いない。
人々はみな一様にそのような思いを持った。大和と別れて、新都へ向かう日は、一点の雲もなく晴れ渡った春の日であって貰いたかった。誰も同じ気持ちでった。
大和朝廷の首脳者たちが、長い隊列を作って、住み慣れた飛鳥の都を発ち出でたのは、神事が終わって暫くしてからであった。都大路には全く人影はなかった。この日のこの時刻、民は自由に出歩くことを停められてあったので、そのために人の姿はなかったのであるが、いかにもそれは既に都が打ち棄てられてしまっているいかのように見えた。
隊列が都を突っ切って行く頃から、が当たり始めた。いつか一点の雲もなく、空は晴れ渡っていた。額田が念じたように雲もまた、こころを持ったのに違いなかった。
隊列は春の陽の照っている静かな飛鳥の都をたち出でて行った。隊列に加わっている朝臣や武臣たちの心も明るくなった。都を棄てて行く悲しさは薄らぎ、湖畔の新しい都へ向かう明るい気持ちがそれに変わった。
隊列は奈良坂で進行を停めた。ここで人々は大和の都と三輪山に本当の別れをした。もはや三輪山のあたりには雲はなかった。
2021/06/04
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