~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
水 城 (2-06)
額田は、隊列の交尾に配された輿こしに揺られていた。昂奮こうふんはまだ額田の面を上気させていた。大和の都を離れて行く心のたかぶりではなかった。中大兄の心で詠い、民の心で詠い、自分の心で詠ったと思った。そしてそれは一応自分の満足できる形で詠えたという気持であった。
額田女王にとっては、この日は自分が生井い育った大和の国から別れる日でもあったと共に、新しい生活への出発の日でもあった。額田は飛鳥の都と別れる日を境として、中大兄皇子との愛情の生活にも終止符を打とうとしていたのである。中大兄との関係を断とうと思ったことは、これまでにも一回あった。半島の敗戦に依って、中大兄が筑紫から飛鳥へ引き揚げた時である。しかし、結局額田はそれを押し切ることは出来なかった。館を王宮内から都のはずれに移しただけのことで、中大兄皇子から手を差し伸べられると、それを払いのけることは出来なかった。
額田は世人が自分と中大兄との関係をどのように見ているか知らなかった。また知ろうともしなかった。自分が依然として中大兄皇子と特殊な関係にあると見ている者もあるであろうし、その反対の見方をしている者もあるであろうと思った。どう見られようと、額田には構わない事であった。その点、額田はそうした世間の眼からは自由になっていた。
しかし、額田は今度こそ中大兄との関係をはっきりしたものにしようと考えていた。額田がこうした気持になったのは、新しい近江の都に移ると、中大兄皇子の身の上にh必ずや大きな変化が起こるだろうと思ったからである。皇太子としての天下のまつりごとってからいつか七年の歳月が流れている。額田女王に限らず誰にも、中大兄皇子の即位する時が迫っていることが感じられた。そうなった場合、額田は中大兄皇子との関係を今までのような形で続けて行くことは出来なかった。これまでは何と言っても皇子としての自由さがあり、その自由さが額田との関係を今日まで持ちこたえて来たのである。
それからもう一つの問題は、中大兄と大海人の両皇子の間にたとえ紙ほどのすきもあってはならないということであった。これもまた額田だけでなく、誰もが同じように考えることだった。
新しい都に移ることに依って、大化の新政は漸く本道に乗るであろうし、またそにために政は解決に苦しむ問題をたくさん抱えなければならなかった。民の生活は苦しくなるだろうし、そのために鬼火はこれまで以上にたくさん燃えるかも知れないのである。
しかし、今度の額田の決意は、一方でまた、自分を守るためのものでもあった。中大兄皇子が即位した場合、もし中大兄との今までの関係を続けるとすると、宮中にも入らねばならなかったし、妃としての椅子いすも持たねばならなかった。大勢の妃たちの中の一人になることは、どうしても額田には出来ないことであった。
額田は飛鳥から近江への道を、輿で運ばれて行った。春はまさにたけなわであった。うらうらと春の陽は照り、野にも農家の庭先にも春の花が見られた。輿に吹きつけて来る風も春の風であった。
隊列があるある聚落しゅうらくで停まった時、額田は輿から降りた。大海人皇子が馬を近付けて来た。
「今度新しい都で、額田はどこに館を持つか」
大海人皇子はいた。
「まだ決まっておりませぬ」
額田は答えた。
「王宮の中に館を持つことになるのではないか」
大海人のこうした問いかけの中に、兄の皇子と額田との関係をさぐろうとしているところがあるのは明らかであった。それに対して、額田は返事をしなかった。いつものように曖昧あいまいに笑った。
額田は大海人皇子にだけは、いかなる関係であれ、中大兄との関係をはっきりさせてはならぬと考えていた。これまでもそうであったし、これからあともそうであった。もし中大兄との関係が本当に断たれていると知ったら、断られたら断られたで、この弟皇子が自分に対していあかなる態度をとって来るか判らなかったからである。
こうした点に於いては、かつて皇女までもうけた間柄ではあったし、大海人皇子ほど、額田のとって取扱いのむずかしい相手ではなかった。
2021/06/05
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