~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
近 江 の 海 (1-02)
三月になると、日一日、湖の水はぬるんだ。冬の寒さは大和よりきびしかったが、その代わり冬の期間は短かった。春が近くなったと思うと、寒さは急速に衰えて行った。
そうしたある日、額田は大海人皇子を己がやかたに迎えた。近江へ移ってから、初めてのことであった。大海人皇子を迎えて、額田の館は大騒ぎになった。侍女たちは庭先に皇子の坐る席を作った。
「梅が咲いてるな」
大海人皇子が言ったように、庭先には白い花をつけた梅樹があった。
「この梅は館を作る時に移し植えたものか」
「さようでございます」
額田は答えて、
「今年は花をつけないと思っておりましたが、このようにみごとな花を咲かせてくれました」
「飛鳥の館にも梅があったな」
「はい」
「額田は梅の花が好きだな」
「はい」
そう言ってから、
「梅は好きでございますが、一本、二本の梅が好きでございます」
そう註をつけた。ふいにこの時の額田は、このようにちゅうをつけておかないと不安なもののあるのを感じた。すると、果たして、
「梅林の梅はきらいか」
そう言って、は大きく笑った。
「はい」
「嫌いでも致し方ない。あったことは消えない」
大海人皇子はそんな皮肉な言い方をした。
額田は大海人皇子と相対して席をとっていたが、二人の間には必要以上の距離が置かれてあった。額田は大海人皇子を何となく警戒している気持だった。これまで大海人皇子に対して、このような気持ちを持ったことはなかった。いつも相手がどのようなことを言おうと、額田らしい対応で、それを取りさばくことが出来たが、今はそれが出来なかった。警戒する気持の方が先に立った。
「これから、時折、梅の花を見に寄らせてもらおう」
大海人は言った。
「梅の花も、もう先の生命は短いと存じます」
「短い生命なら、そらがなくならぬ間に、せっせと通わせて貰おう」
「今晩にも風が吹きますと、── 」
「全部散ってしまうか」
「はい」
「その白く美しい手が、よもや梅の花を散らすようなことはすまい」
額田は思わずひざの上に置いた自分の手を引いた。
「久しぶりで会ったら、見違えるほど健康になり、──」
「美しくもなった」
「わたくしがでございますか」
「あいにく、他には誰も居ない、誰も居ないところをみると、大海人は額田のことを言っているのであろう」
「久しぶりでお目にかかりましたら、──」
顔を上げると、大海人皇子の眼があった。
「見違えるほど大胆におなりになり ──」
「それから ──」
「女人をめになることがお上手じょうずにおなりになりました」
「褒めてはいない。本当にそう思ったから口に出して言ったまでのことだ」
と大海人皇子は席を立つと、庭を歩き出した。そして、
「額田は美しくなり、臆病おくびょうになった」
「───」
「なぜ臆病になったのか」
「わたくしにも判りませぬ」
「大海人にはよく判っている。誰にもやらぬはずの心をられたからだ。額田はよく言っていた。心だけは誰にもやらぬとと言っていた。それを信じたのが手落ちだった」
額田は黙って頭を垂れていたが、顔を上げると、
「いいえ、そんなこと」
額田は言った。必死な思いがあった。
「いや、心を奪られている。可哀かわいそうなことだ。誰に判らなくても、この大海人には判る。可哀そうなことだ」
大海人は笑った。
「いまになって、心を奪られたとあっては、いささか約束が違うようだ」
「今日の皇子さまは執拗しつようでございます」
「そう。いかにも今日の大海人はいつもの大海人とは違うようだ。自分でもそれが判る。ここに居ると、何を口走るかも判らぬ」
「梅の花もご覧になったのですから、もう御帰館遊ばしませんと」
額田は言った。すると、
「今日は汝の言うように退散いたすことにしよう。実は相談したいことがあってやって来たのだが、そのことは改めて出直して来た時のことにする」
「何の御相談でございましょう」
これには答えないで、
「相談しなければならぬことがある。あすにでも、出直して来ることにする。もう一度、梅の花を見せて貰おう」
額田は、本当に大海人皇子は明日にでも再びやって来るだろうと思った。額田は何とかしてそれを避けたかった。いま自分の前に居る大海人皇子に、何年か見なかったはげしいものを感じたからである。自分を梅林の中にらつし去った若い日の大海人皇子の烈しさであった。
「梅は、今晩散ってしまうことでございましょう」
額田は言った。
「大海人が見たいだけではない。他にも見たがっている者がある」
「どなたでございましょう」
「判らぬか」
「───」
母親の心まで奪られてしまっては困る」
額田は烈しい衝撃でも受けた思いであった。あっと声をたてたいような気持で、額田はそこに立ちすくんだ。
「これから館に帰って、あす梅を見せに連れて来ると言ってやる。さぞ、悦ぶことであろう。せっかく連れて来て、梅が散ってしまったとあっては、さぞ落胆いたすであろう」
大海人皇子は額田に背を見せて歩き出した。額田は皇子を送り出すために、そのあとにしたがった。
門口には既に何人かの侍女が居並んでいる。その間を、大海人皇子はゆったりした歩き方で歩いて行った。
額田は一人になると、さっき大海人皇子が歩いたように庭を歩いた。梅の花を見に来るのが大海人皇子一人でないとなると、梅の花を散らすわけには行かなかった。それどころか、どうか今夜、花を散らす風の吹かないことを祈りたかった。久しぶりで、額田には母の心が立ち返っていた。
2021/06/08
Next