~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
近 江 の 海 (1-03)
翌日、額田は十市皇女とおちのひめみこが梅を見に来るのを心待ちにしていたが、どこからも何の連絡もなかった。掃き浄められた庭に静かに冬のの散っているのを眺めながら、額田は終日為すことなく過ごした。一日は早く暮れた。
夕方、額田は心衰えた気持で、ついに待人がたずねて来なくなった梅の花の咲いている庭を歩いた。十市皇女とはもう一年近く会っていなかった。自分が腹を痛めたむすめに違いなかったが、母としての務めは何もしていなかった。大海人皇子の館で侍女たちにかしずかれて生い育っている己が女に、母としての思いをせないわけではなかったが、思いを馳せたとてどうなるものでもなかった。額田は遠くから一つの運命を見守っている気持だった。その運命は、母親としての自分が近づかない方が、すくすくと伸びて行く筈であった。さわらない方がいい、触らない方がいい。そんな気持ちで、額田は十五年の歳月を過ごして来ていた。その運命もいつか十六歳の春を迎えている。
遠くから眺めている分には、額田はさして会いたいとも話したいとも思わなかった。むしろ会うことがおそろしい気持さえあった。どのように話しかけていいか、どのように接していいか、世の母の心というものが見当つかなかった。しかし、向こうから訪ねて来ると言われると、やはり、待たずにはいられなかった。この世にかけ替えのない貴重なものが近付いて来る思いで、それが近付いて来るまでは落ち着かなかった。
額田が救いようのない思いで梅の木の下に立っている時、大海人皇子からの使いがやって来た。中年の侍女だった。
「明日、皇子さまのお館に姫さまたちがお集まりになります。どうぞお越しになりますように」
それだけ侍女は言った。額田はすぐに返事をしかねたが、思い切って、
「お伺いいたしましょう」
と答えた。姫さまたちがお集まるになるという侍女の言葉では、いかなる集まるがあるか見当つかなかったが、そこに十市皇女が姿を見せることだけは間違いないと思われた。昨日ここを訪ねて来た時の大海人皇子の烈しい眼を思うと、この誘いに応じない方が無難であるに決まっていたが、この場合やはり、母親の心が額田を動かしたのである。今の額田の心の衰えは、ひと目でも十市皇女に会うことに依ってしかいやされないものであった。
翌日、指示された時刻に、額田は大海人皇子の館におもむいた。館は王宮と隣り合わせの地域なあって、世人はこの館をも王宮の一部と見做みなしており、同じように御殿ごてんという呼び方をしていたが、二つの敷地は鬱蒼うっそうたる森を真ん中において、截然せつぜんと分かれていた。
額田は大海人皇子の屋敷に足を踏み入ることは初めてであった。王宮とは違って、いささかも人工は加えられず、自然の山野がそのまま幾むねかの館を取り巻いて置かれてあった。
額田は出迎えの侍女に導かれて、冬木立の中の道を歩いて行った。くぬぎの林であった。そこを抜けると、広場があり、その向こうには梅林が拡がっている。あっと声を立てたいほど見事な梅林であった。たけ低い梅樹が何十本か、何百本か、いずれも白い小さい花をつけている。このような自然の梅林があろうとは思われぬので、ここだけには人間の手が入っているのであろう。
額田は大海人皇子にしてやられた気持だった。額田の館の二、三本の梅を見て、梅見に来ようと言った大海人の言葉を信じた自分が、今更ながら迂闊うかつに思われた。十市皇女も梅見に来る筈はなかった。この見事な梅園を持っている館の中で毎日を送っているのである。
小道は梅林のすそを廻るようにして走っていた。あたり一面に梅の香が漂い流れている。額田は時折、立ち停まっては、梅の香をいだり、梅の林を眺めったりした。侍女は時折、足を停めては、そうした額田を待った。梅林の裾を半周したと思われる頃、額田は幼い者たちの疳高かんだかい声を聞いた。それは梅林の中から聞こえて来るように思われたが、やがて、そうでないことがわかった。
「どうぞ」
侍女に導かれて行った所は、梅林の横手の館であった。母屋おもやの屋根は木立越に遠くに見えているので、ここは観梅のために造られた館であるかも知れなかった。造りは全くの農家である。館の中に入るのは躊躇ちゅうちょされた。
「暖かですので、暫く梅林の中を歩いて参りましょう」
額田が言うと、
「では、こちらの方が陽だまりになっておりますので」
侍女は言った。額田は再び侍女のあとに随ってその館を背戸せどの方へ廻って行った。間もなく額田は足を停めた。額田の眼の中に入って来たものは、何人かの女たちの姿であった。誰が誰とも判らないが、妃たちも居れば、侍女たちも居る。子供たちも居る。さっき額田の耳に入って来た子供たちの声は、ここから聞こえていたのである。
侍女が言ったように、梅林と館にはさまれた空地はなるほど恰好かっこうな陽だまりになっている。いかにも農家の背戸といった感じであるが、そこに散らばっているものは、それと凡そ違った派手な色彩であった。所々に椅子や卓が配され、簡単な宴席が造られている。
額田は来るべからざる所へ来た思いであった。が、来てしまった以上は、もうどうすることも出来なかった。額田は、瞬時にして、自分の取るべき態度を決めた。何ものにもこだわらぬ自由さで押し切ろうと思ったのである。自分は十市皇女の母親である。十市皇女の母親として大海人皇子からこの宴席に招かれたのである。額田は自分にそう言いきかせた。
2021/06/09
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