~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
近 江 の 海 (1-04)
額田は宴席に入って行った。鸕野皇女うののひめみこが真っ先に眼に入って来たので、その方に頭を下げた。すると、鸕野皇女は額田の方へ近寄って来て、
「今日お越しになるか、どうか、高市皇子たけちのみこのお母様と話していたところです。たまにはこのお館にいらっしゃらぬと、十市皇女がお可哀そうです」
と言った。明るいなんのわだかまわりもない口調だった。額田は鸕野皇女からこのような態度で迎えられようとは予期していなかった。中大兄を父に、大海人を夫に持っている鸕野皇女は、大海人の妃たちの中でも最も大きい権勢を持っていた。別に自分で権勢を持つことを望んでいるわけでもなかったが、おのずからそうしたものが鸕野皇女にはおのずか わるようにできたいた。大海人皇子の妃で、鸕野皇女と同じように中大兄を父に持っている者に大江皇女、新田部皇女にいたべのひめみこがあったが、鸕野皇女がひとりだけ異なった場所に坐っている感じだった。それは年長のためでもあり、天性の美貌びぼうのためでもあったが、より以上に生まれながらにして持った聡明そうめいさの故であった。
同じように中大兄を父に持ち、大海人の妃であった太田皇女が他界していなかったら、今日の鸕野皇女に集まっている人気は二分されなければならなかったかも知れない。額田は二人の妃たちの中で、どちらかといえば性格のおっとりした太田皇女の方に好感を持って居り、鸕野皇女に方には漠然と親しみ難いものを覚えていたが、そうした先入観を、いまは改めなければならなかった。
額田は鸕野皇女がまぶしかった。天成の麗質という言葉がぴったりしていた。美貌と聡明さが一緒になっている美しさであった。鸕野皇女は二十四歳であった。
そこへ尼子娘あまこのいらつめがやって来た。額田の姿を見て、額田に言葉をかけるために出向いて来たのである。
「十市皇女がどのようにおよろこびでございましょう」
尼子娘はあたりを見廻して十市皇女を探すようにしてから、
「いままで「ここにいらしったのですが、梅林の方にでも}
と言った。大海人の妃たちの中で一番年長のこの妃には、額田は前々からある親近感を持っていた。他の妃たちに較べると身分の低い地方の豪族の出で、そうしたことからいつも自分を控え目に控え目に持している妃であった。それに、額田が十六歳の十市皇女の母であるように、尼子娘は十五歳の高市皇子の母であった。
この時気付いたのであるが、この観梅の宴席には他の妃たちの姿はなかった。鸕野皇女が生んだ七歳の草壁皇子が大勢の侍女たちに取り巻かれて、梅林の方へ歩いて行くのが見えた。すると、そのあとから、これまたそれぞれ侍女たちにかしずかれながら八歳の大来皇女おおくのひめみこと六歳の大津皇子が梅林の中へ入って行った。この皇女と皇子は亡き大田皇女のわすれがたみであり、そういう眼で見ると、どこかに淋しいものが、その動きの中にも感じられた。同じように侍女たちに取り巻かれてはいるが、草壁皇子の方が何の遠慮もなくはしゃぎ廻っている感じであり、大来皇女と大津皇子が互に手を執り合って歩いて行く姿には、何となく力を併せてやって行こうと言い合っているような所が感じられた。
額田は、母をうしなった皇女、皇子に較べれば、まだ十市皇女の方がしあわせであるかも知れないと思った。十市皇女も母というものを持たない皇女として、大海人の館の中に生い育って来た。しかし、何事もなく十六歳になってしまったのである。
額田は、梅林の中に入って行った幼い皇子、皇女たちと入れ違いに、高市皇子と十市皇女の二人が、何か笑い興じながら梅林の中から出て来るのを見た。
額田ははっとした。十市皇女は一年ほど見ない間に、もうすっかりおさなさを失くしていた。どこから見ても、もう一人前の成熟した女性であった。
「おや、十市皇女がお見えになりました」
尼子娘が額田に注意した。
「お美しいこと、お母さまにそっくり」
鸕野皇女も言った。額田は十市皇女が自分を見付け、はっとしたようにこちらを見詰めたあと、真っ直ぐに自分の方にやって来るのを見た。十市皇女はこれまで額田を顔を合わせると、いつも何となく額田を避けるような素振りを示したが、今はそういうものは感じられなかった。反対に額田の方が、いま自分の方に歩いて来つつある十市皇女を避けたい衝動を覚えた。一瞬身をひるがえ して、どこかへけ去ってしまいたいような奇妙な思いに身を揺すぶられていた。
十市皇女は、額田の前まで来ると、額田の方には軽くひとつ笑って見せ、それから尼子娘の方に、
「梅の花を見に参りましょうよ。梅の花をご覧になりにいらっしたのでよう。それなのに、こんなところでお話しばかりして」
と言った。遠慮というものの全くない言い方であった。
「待っていらっした方がお見えになって、こんなにいいことはないでしょう」
鸕野皇女が言うと、十市皇女はそれにこたえないで、また額田の方へ笑顔を見せ、あとは鸕野皇女の方に、
「ね、梅の花を見に参りましょうよ、さ、早く参りましょうよ」
と言った。
額田は黙っていた。黙っていても身内は大きい幸福感でいっぱいになっていた。額田は十市皇女に二回笑顔を見せられたことで充分満足だった。それは明らかに母を意識し、他の誰でもない、母だけに見せた特殊な笑顔であった。親しさと、嬉しさと、はにかみと、そうしたものが一つになった微笑であった。あなたとはお話ししません、だって、傍に他の方がいらっしゃるんですもの、十市皇女の眼はそんなことを言っているように、額田には思えた。
高市皇子がやって来た。この皇子もまたすっかり稚さを失くしていた。少年ではあるが、大柄な体のどこかに大海人の第一皇子らしい落ち着きを身につけている。高市皇子は額田に、これも笑顔を向けることで挨拶あいさつに代えて、
「さ、こんどは裏山へ登ってみよう」
と、十市皇女に言った。
「いや」
十市皇女は答えた。
「なんだ、自分で登りたいと言っていたじゃないか」
「そんなことは言わないわ」
「あれ、いま、自分でそう言っていたじゃないか」
そんな応酬があった後、二人は額田たちのところから離れて行った。途中から二人が二人が梅林の裾の道を駈け出して行くのが見えた。少年と少女の姿が消えると、額田は我に返った。今いま見たものは幻覚ではなかったかと思った。額田には十市皇女がそれほど幸福そうに見えたのである。
どこにも母のない皇女として育った暗さはなかった。鸕野皇女や尼子娘に対して話しかけるその口調の中には甘えさえあった。そうした自分を母に見せようと意識した甘えあったかも知れないが、傍で見ていて不自然でも卑屈でもなかった。また高市皇子と駈けて行くその背後姿うしろすがたも、素直で、自然で、幸福に輝いたものであった。このように、十市皇女は幸福でいいだろうか。そんな思いが、瞬間、額田の顔をかたくさせた。
2021/06/11
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