~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
近 江 の 海 (1-05)
やがて、そこらにちらばっていた侍女たちがいっせいに立ち上がり、辺りには緊張したものが流れた。額田にはすぐ大海人皇子が姿を見せるであろうことがわかった。
額田は自分が控えるべき場所を探した。鸕野皇女や尼子娘とは少し離れた場所で、大海人皇子を迎えるべきであると思った。そうした額田に気付いたらしく、
「今日は、一緒に皇子さまをお迎えいたしましょう。いろいろ御相談したいことがあって、あなたをお招きにになったのだと思います」
鸕野皇女は言った。そう言われると、額田は場所を移すわけには行かなかった。鸕野皇女の背後の廻り、そこに尼子娘が居ることに気付くと、
「どうぞ」
尼子娘を前に押し出すようにして、自分はまた尼子娘の背後に廻った。こうするのは礼儀でもあったし、現在の大海人皇子と自分との関係をそういう形ではっきりさせておきたかった。二人の妃たちにもはっきりさせておきたかったし、大海人皇子にもはっきりしておきたかった。
やがて大海人皇子が姿を現すと、女たちはいっせいに頭を下げた。額田も頭を垂れた。
「お待ちかねの方がおみえになっております」
鸕野皇女の声が聞こえた。
「誰か」大海人皇子の声である。
「お眼を大きくお開きになって、あたりを御覧遊ばせ」
「ほう」
額田は大海人皇子の視線を額に感じた。額田は頭を下げたままでいたが、鸕野皇女に思いがけぬ態度をとられたことで、動悸どうきは烈しく鳴っていた。すると、また鸕野皇女の明るい澄んだ笑い声がいたずらっぽく聞こえて、
「そんなこわい顔をなさって」
「別に怖い顔はしておらん」
それから、
{額田が来ているのか」
こんどははっきりと、自分の方に大海人皇子の声が落ちて来た。額田は顔を上げた。
── お久しゅうございます。
よほどそう言おうと思ったが、危ないところで額田は踏み留まった。黙っていた。すると、鸕野皇女が、
「皇子さまはあなたをここにおびするにはどうしたらいいか、わたくしに御相談になりました。さきほど尼子娘のお話しでは、尼子娘にもそういう御相談があったそうでございます。このぶんでは、他の妃たちにも、それぞれ御相談なさったことでございましょう。お気の毒なことに、御自分では何もなされないのでございます。この世の中で十市皇女の母さまが、一番お怖いご様子でございます」
額田は大海人皇子の方には眼を向けていなかったが、大海人がいかなる表情をとっているか、見ないでもよく判った。鸕野皇女に機先を制せられて、太刀打たちうちちが出来なくなっている格好かっこうだった。
額田はやはりこの席にやって来たことを後悔していた。鸕野皇女のこうした軽口にさして悪意があろうとは思わなかったが、相手が自分より十歳以上も若いということに、やはり拘泥せずにはいられなかった。自分の方が若くて美しいという絶対の自信があればこそ、鸕野皇女はこうした言葉を口から出せるに違いなかった。
しかし、また、この場で鸕野皇女が大海人皇子に投げつけた言葉を耳にして、反対にほっとする思いもあった。大海人皇子と額田とが現在何の関係もないということを、疑うべからざる事実として、鸕野皇女は信じているに違いなかったからである。聡明怜悧そうめいれいりな 鸕野皇女にしても、なお見落としていることはあった。それは、極く最近、僅か二日ほど前に、大海人皇子が額田の館をたずねて来たことである。こうしたことに思いを馳せると、額田は多少のゆとりを気持の上に感じた。が、それは極く僅かの間のことで、やがてそうした思いは一瞬にして吹き飛んでしまわなければならなかった。
「皇子さまは十市皇女をお連れして、額田女王のお館をお訪ねなさろうとなさったのです。そうではございません? どうも、わたくしにはそんな風に思えてなりません」
ふいに額田は気持の凍るのを感じた。この若い美貌の妃は何もかも知っているのではないか!
「そんなこと ──」
言いかけて、大海人皇子はあとの言葉を飲み込んでしまった。額田は相変わらず頭を下げていたが、大海人皇子の困惑している顔が眼に見えるようであった。
額田は顔を上げると、低く声に出して笑った。思わず口から出た笑い声であった。かつて、自分に弱点を指摘される度に、大海人皇子は何とも言えぬ困惑した表情を見せたが、それと同じものを、いま大海人皇子は顔に走らせているに違いないと思ったからである。
笑い声を出してしまった以上、もう取り繕っていても始まらなかった。額田は、 鸕野皇女の方に、
「わたくしの館に皇子さまをお迎えするようなことがなくてよろしゅうございました。お蔭さまで御殿にお招きいただきまして、楽しい梅見をすることが出来ました」
額田は言った。額田は笑い声を出したことで自分を立ち直らせることが出来たが、口から出す言葉は充分注意しなければならなかった。やはり 鸕野皇女という若い妃が怖かった。心許せない相手であった。一体、自分をこの席に招いたのは、大海人皇子であろうか、 鸕野皇女であろうか。額田はきのう使いに立って来た中年の侍女の冷たい顔を思い浮かべていた。あの侍女は誰の命を受けてやって来たのであったか。
しかし、そのあと額田は平静心を取り戻す事が出来た。考えてみれば、懸念けねんしなけれなならぬ何事もなかった。大海人皇子が二、三日前自分の館を訪ねて来たことを、大海人の妃たちに匿せるなら匿しておきたいだけのことであった。それも、もともと自分の関知したことではなかった。大海人皇子が自分で勝手に額田の館を訪ねて来ただけのことである。しかし、それを匿せるなら匿していきたいというのは、そうしたことから起こる誤解というものが鬱陶うつとうしかったからに他ならない。
ただそれだけのことではないか、額田は自分自身にいい含めた。確かに、ただそれだけのことに違いなかった。が、幾ら自分にそう言い含めても、なお、それで自分を納得させるというわけには行かなかった。心に何かだ残った。その何かというのは、額田自身気付かなかったが、それは大海人皇子をかばってやろうという額田の心の中にひそみ匿れている思いであった。そういう思いを愛と言うのなら、それは額田の大海人皇子に対する愛であった。二人の間に十市皇女という皇女さえもうけた相手に対する愛であった。そしてまたいまも時折、烈しい眼眸まなざしで自分を射る昔の愛人に対する愛であった。
2021/06/12
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