~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
近 江 の 海 (1-06)
この観梅の宴席で、額田は大海人皇子に対しては、極く自然な態度をとった。自分からは話しかけては行かなかったが、大海人が言葉をかけて来ると、それに対しては素直な態度で応じた。
暫らくするとかげった。陽光が落ちなくなると、戸外の宴席は寒くなった。一同は館の尚部に入った。宴席を戸外から館の内部に移すのをきっかけに、鸕野皇女は大海人に言った。
「わたくしも、尼子娘も、ここで座を外させて戴きましょう。あとは、どうぞ、額田女王と水入らずで大切なことを御相談遊ばせ」
それから、額田の方に、
「皇子さまは十市皇女のことであなたに御相談があるそうでございます。十市皇女のことは、皇女をおもうけになりました当のお二人で御相談なさるのが一番よろしゅうございましょう」
その鸕野皇女の言葉で、額田は十市皇女の身の上に何事かが起こりつつあることを知った。もう十六歳の春を迎えている十市皇女のことであるから、身を固める上にいかなる話しがあったとしても不思議はなかった。
「承知いたしました。いかなるお話しか存じませんが」
額田は言った。鸕野皇女と尼子娘が、大勢の侍女たちに取り巻かれた去って行くのを、額田は館の門まで送った。幼い皇子や皇女たちも、それぞれにぎやかに引き揚げて行った。
額田は再び館に戻った。急にひっそりした館の内部は、今までと同じ場所であるとは思えぬほど、暗く寒々としたものに感じられた。
額田は部屋の入口の席に就いた。大海人皇子の席とはかなりの距離があった。館にはまだ大勢の侍女たちが遺っており、その中には鸕野皇女の侍女も混じっているに違いなかったので、額田はそうした座の取り方にも気を遣っていたのである。大海人皇子の方は、
「もっと近くまで来なくては話しが出来ないではないか。何も取って食べようというのではない」
そんなことを言った。額田はもし二人だけの席であったら、このような大海人皇子の言葉に対して、額田らしい応酬をする筈であった。鸕野皇女にすっかり軽くあしらわれていたことに対して、ちくりちくりと、一本や二本の針は刺してやりたかった。しかし、額田は臆病にもそうした態度は示さなかった。いま二人が相対している部屋にこそ誰も姿を見せていなかったが、部屋を一歩出たところには、大勢の侍女たちが控えているに違いなかった。その中にちり一つ落ちる音をも聞きらすまいとしている監視人が居ないとは限らなかった。
そうした額田の気持を見てとったのか、
「侍女たちはみな遠くに退がらせている。十市皇女についての大切な話をするのに、迂闊うかつなことはしていない。それでもなお案ずるなら、一応館の内部を見廻って来るがよかろう」
大海人皇子は笑いながら言った。大海人がそう言うのであるから、あるいはそうかもしれないと思った。しかしs、額田は態度を改めなかった。侍女の問題は問題として、それなら尚更なおさらのこと、用心しなければならなかった。侍女の代わりに、大海人皇子が怖かった。この部屋に二人だけ遺されてからの大海人皇子は、はっきりと、さっきまでとは異なった烈しい眼を見せていた。
「十市皇女についてのお話しと申しますのは、いかなることでございましょう」
額田は言った。
「重大な問題だ、近く寄るがいい」
「ここでも承れます」
「大きな声では話せぬ」
「誰もこのお部屋の近くには居られぬと仰せになりました」
大海人皇子は立ち上がった。それを見て、額田もはっとして立ち上がった。そして、
「今日は十市皇女についてのお話しだけ承りとうございます。もし、それ以外のお話しがございますなら、わたくしの館にでもお越し戴いた居り、お伺いいたしましょう」
額田は言った。本心ではなかったが、そういう言い方をしない限り、この場をのがれる手段はなさそうであった。
すると、大海人皇子は、それならばというように再び自分の席に戻って、
「十市皇女を大友皇子のもとに差し出すことは、いかが考えるか」
こんどは、真顔で言った。
「大友皇子さまでございますか」
額田はそう言ったまま、あとは口をつぐんでいた。すぐには、いいとも悪いとも言えなかった。
大友皇子は中大兄皇子と伊賀采女宅子娘いがのうねめやかこのいらつめとの間にもうけられた皇子であり、中大兄皇子が天智天皇になられた現在は、天皇の第一皇子にほかならない。筋骨たくましい二十一歳の皇子である。母の宅子娘が高貴の出でないので、第一皇子であるとは言え、その将来には自ずから限定されたものがあった。天下のまつりごとる立場には無縁であると見なければならなかった。
現在天智天皇の後継者の位置にあるのが大海人皇子であることは、衆目の等しく見るところであった。正式に立太子の儀は執り行われていなかったが、大海人皇子自身もそう信じていたし、朝臣武臣のすべての者がそう信じていた。天智天皇のほかの皇子たちは、川島皇子にしても、志貴皇子にしても、まだ少年の域を出ていなかった。しかし、そうした皇子たちの母方の身分や年齢の問題を別にしても、大海人皇子が天智天皇の後継者の地位にあることは、中大兄皇子をたすけて、長く苦しかった時代を切り抜けて来た経歴とその功績から考えて、極めて当然なことであった。
額田は、長い間言葉を出さなかった。額田が黙っている間、大海人皇子も黙っていた。いかにも額田に対して、充分考える時間を与えてやるから、存分考えるがよかろう、そういう態度をとっているように見えた。
額田はひとりの思いの中に入っていた。大海人皇子の口から出た大友皇子という名の皇子は、いまや十市皇女の運命であった。大友皇子が多幸な運命を持つなら、十市皇女もまた多幸であると見てよかった。反対に不幸な運命を持つなら、十市皇女もまた不幸であった。
額田のまぶたの上に、ふいに有間皇子の若く美しい面差おもざしが浮かんで来た。有間皇子の悲運が、有間皇子ひとりのものだとは言い切れなかった。
2021/06/12
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