~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
近 江 の 海 (1-07)
額田はひとりの思いに入っていた。同じ部屋に大海人皇子が居ることを忘れてしまったかのように、いつまでも黙って坐り続けていた。
額田は勿論これまで大友皇子の将来がいかなるものであるか考えたことはなかった。大友皇子は二十一歳の年齢には見えなかった。堂々たる体躯たいくを持ち、どこから見てももう立派に成人した大人であった。母の宅子娘が伊賀の采女うねめであるので伊賀皇子ともばれているが、母方の身分の低さなどは初めからこの皇子には無関係だった。伊賀という名を冠せられても、伊賀という地名などはこの皇子に対していかなる役割をもいていなかった。まゆはspan>ひいで、眼は鋭かった。それに母親似ではなくて、その多くのものを父天武天皇より受け継いでいた。二、三年前まではまだ何と言っても少年のおさな さを持っていたが、それが去年あたりからすっかり払い落されている。最近朝臣たちも何となくこの皇子には一目置くようになっていた。聡明とか、英邁えいまいとか、そういうことの皇子に対する賛辞さんじは、額田の耳にも入っている。確かに聡明であり、英邁でもあるに違いなかった。
また実際に、額田は去年の暮、大友皇子が朝臣たちと、人の道について論じているのを、傍で聞いていたことがあった。人倫の道というものを天のおしえというものの関係に於いて説き、その論旨は明快で、誰もそれに口を差し夾ことは出来なかった。みんな口をつぐんで聞いていた。こうした問題について論じると、まさに独壇場の感があった。いかにしてそうした学識を自分のものにしているのか、誰もが不思議に思うことであった。
額田は、しかし、この大友皇子が己が血を分けた十市皇女の運命として考えると、その運命は得体の知れぬ海のようなものとして感じられた。平穏な運命であるか、荒れ狂い逆巻く狂瀾きょうらんの運命であるか見当がつかなかった。
額田は顔を上げると、大海人皇子の眼をゆっくりと見入り、
「たいへん聡明な皇子さまと承っておりますが」
「いかにも」
「十市皇女がお仕合せになりますことならば ──」
天智天皇の御子と、この大海人の姫との組み合わせである。それが仕合せにならぬということがあろうか」
大海人皇子は言った。そう信じ切っている言い方であった。
額田はまた頭を伏せて自分一人の思いに戻った。確かにこれ以上の組み合わせは望めない筈であった。それにしても、この大友皇子に十市皇女を配そうという考えは、一体どこら出たものであろうか。大海人皇子は、自分の考えとして持ち出しては来ているが、それをそのまま鵜呑みにするわけにも行かなかった。天智天皇が持ち出された話しであるかも知れないのである。大海人皇子が十市皇女の父であるように、天智天皇は大友皇子の父なのである。
しかし、額田はそれが誰の考えであるにしても、この縁組そのものには暗い影があろうとは思われなかった。取引のにおいもなかった。片方が得をし、片方が損をするというようなものでもなかった。。むしろ天智天皇にとっても、大海人皇子にとっても、お互いの提携を強める意味で望ましいことには違いなかった。それなのに、額田は自分がこの話に飛びついて行く気持にならぬのを不思議に思った。なぜであろうか。やはりそこには、有間皇子の悲劇が大きく坐っていると考えないわけには行かなかった。
しかし、大友皇子と有間皇子は、その境遇はまるで違っていた。有間皇子は聡明怜悧という噂が立つと、狂人の真似まねまでして自分の身を守らねばならぬ立場にあった。しかもそうまでしても自分の身に振りかかる火の粉を消すことは出来なかったのである。大友皇子はいくらひとから聡明だと言われても、誰に遠慮することも要らなかった。
額田は頭を上げた。戸外に明るい声が聞こえたからである。
── だまされちゃった。あんな寒いところに連れて行かれて!
── 何も騙したわけじゃない。陽が蔭ったから寒くなっただけのことだ。
── 可哀そうに、こんあに手が冷え込んでしまったじゃないの。紫色になってしまった。
── どれ。
すると、明るい悲鳴が聞こえ、あとは庭から縁側に駈け上がる乱れた跫音あしおとがしたと思うと、部屋の中に先に十市皇女が飛び込み、続いて高市皇子が飛び込んで来た。二人は内部に大海人皇子と額田の二人が居ることに気付くと、はっとしたように、その場に棒立ちになった。
「向こうへ行こう」
高市皇子が言うと、
「ええ」
と十市皇女はうなずいて、二人はすぐ部屋から出て行った。
「十市皇女のお気持ちをお聞きになって、その上でお決めになったらいかがでしょう」
額田は言った。
「まだ、自分の考えは持っていないであろう」
「それにしても、一応お聞きになってみることが」
「うむ」
2021/06/14
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