~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
近 江 の 海 (2-01)
十市皇女が大友皇子の妃として、皇子の館に上がったのは四月の中頃であった。あっという間に事は運んでしまったのである。
その日、額田は館に閉じ籠っていた。宮中において、祝いの宴は賑々にぎにぎしく開かれたが、額田はそれに顔を出さなかった。もともと額田はそこに列する資格を持っていなかった。十市皇女の母親が額田であることは、今やちまたのいかなる男女も知っていたが、額田が正式に大海人の妃であった時期は一度もなかったのである。
いずれにしても、十市皇女の運命は決まってしまったのであった。いい運命であるか、悪い運命であるか判らぬが、兎も角額田は、一つの運命に十市皇女を任せてしまった思いがあった。
この日は何と言っても、額田にとっては特別な日であった。祝いの席にこそ出られなかったが、今や額田は天智天皇の第一皇子に対しては母の立場にあり、その妃は事実自分の血を分けた娘であった。
額田は今度のことが、もともと天智天皇のお考えから発したことであることを知っていた。
天皇が大海人皇子にはかり、そして大海人皇子から自分の所へと話しが廻って来たのである。天智天皇が十市皇女を大友皇子の妃とすることに依って、自分と大海人皇子の関係を一層親密なものにし、それからまた二人の間に、不安定な形で置かれている額田に一つの安定した席を与えようとされたのである。
── まあ、こういうことにしておくか。十市皇女もこれで将来が固まるし、母の額田もこういうところで落ち着くだろう。
そういう天皇の考えが、額田には手に取るように判った。こうした考え方をすれば、今度の十市皇女のことは、所詮しょせん額田の一存ではどうすることも出来なかったことであり、それは十市皇女が生まれながらにして持った運命と言うほかなかった。
この日、午後になってから額田は三人の侍女を連れて、湖畔の道を歩いた。ゆっくりと足を運んだ。
過去にいろいろなことがあったが、額田はこの日初めて自由になれた気持であった。大海人皇子からも、中大兄に皇子からも自由であった。曽て弟皇子の寵を得た時代もあり、中大兄の寵を得た時代もあった。しかし、今は二人の皇子から何の束縛も受けていなかった。すべては過去のことであった。天皇、大海人皇子、大友皇子、十市皇女が作り出している星座の中に、額田は今や己が位置すべき場所を持ったのである。そこからは少しでも動けなかった。そこを少しでも動くと、人間関係の均衡は破れ、いっさいは崩れ落ちて行く筈であった。額田は、もはや天皇にも、大海人皇子にも傾くことの出来ぬ自分を感じ、そういう意味で額田は、この日初めて自由であったのである。
湖畔に迫っている山々の雑木は日一日と緑を増している時季で、その雑木の緑をざわざわと風が揺り動かして渡って行った。額田は夕方近くなるまで湖畔を歩いた。どこという当てもなく歩いていて少しも疲れは感じなかった。そろそろやかたに引き揚げようかという頃になって、一つの事件が起こった。額田があしの生い茂っている水際に立った時、どこからか石が飛んで来たのである。石は水際に落ちて、水をはじいた。暫らくすると、二つ目の石が飛んで来た。侍女があたりを見廻して、
「どうしたのでございましょう。もう少しでお肩に当たるところでございました」
と言った。その時になって、額田は石が自分にかって投げられたものであることを知った。
「本当に危ないこと。どうしたのでしょう」
額田もまた辺りを見廻した。どこにも人影はなかった。辺り一面に芦の原が拡がっており、もしそこらにひそみかくれているとすれば、さしずめ芦の中と見るしかなかった。それにしても、どこからともなく石が投げられて来たことは不気味であった。
「お館にお引き揚げになりましたら?」
「そうしましょうか」
女たちは水際を離れた。そして芦の中を走っている小道を伝って足早に歩いた。また石が飛んで来た、今度は続けさまに三つの石が宙を切って来た。
「誰や」
侍女の一人が叫んだ。かなり離れたところではあるが、右手の芦の原の一部が異様な動き方をしている。
「誰や」
また侍女は叫んだ。芦のざわざわという揺れは次第に遠くに移動して行きつつあった。明らかにそこには誰かひそんでいる筈であった。そして芦に身を隠したまま逃げ去ろうとしているのである。
2021/06/15
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