~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
近 江 の 海 (2-02)
女たちはまた歩き出した。しると、また背後から石が飛んで来た。執拗しつような感じだった。相手は逃げるのをやめて、またこちらをうかがったのである。
「誰や」
それと一緒に気丈な老女が芦を分けて、犯人がひそみ匿れている方へ歩き出した。
「おやめなさい」
額田は叫んだ。他の二人の侍女も同じ事を口から出した。しかし、老女はそのまま芦を分け進んで行った。芦の上に出して老女は移動しつつあったが、やがて立ち停まるのが見えた。すると、その老女のすぐ前に、あたかもかい合って立つように一人の男の姿が現れた。額田たちの方からは、それがいかなり者かは判らなかった。遠くもあったし、老女の体が相手を隠してもいた。
額田たちは息を詰めてその方を見守っていた。するとやがて、どうしたのか、老女は体の向きをこちらに変え、そのまま引き返して来た。そして女たちの所へ戻って来ると、
皇子みこさまでいらっしゃいます」
と言った。なるほど今や半身を芦の上に出して、傲然ごうぜんと向こうへ去って行く姿は、巷の少年の姿ではなかった。
「皇子さま!? 皇子さまと言うと ──」
「それが、高市皇子さま」
額田は驚いた。高市皇子! 不思議な思いに打たれて、額田はそこに立ちつくしていた。
額田は館へ戻るまで、高市皇子が自分に石を投げつけたことの意味を考えた。あのような執拗な投石は、勿論もちろんたわむれではなかった。はっきりとこちらに恨みをいだいての上のことであった。
額田は芦の原の上に半身を出して、傲然と反抗を見せて去って行った少年皇子の姿を、何回となく瞼に浮かべた。
額田は高市皇子に恨みを買う覚えはなかった。ただ一つ考えられることは、高市皇子が十市皇女に思いを寄せていた場合である。十市皇女が大友皇子も妃となったことを悲しみ、そうしたことの原因が額田のあると考えれば、皇子があのような行為に出たとしても不思議はないと思われた。
高市皇子が十市皇女を想っていたとすれば、そして、もしも十市皇女の方もまた ──、こう考えた時、額田は何とも言えぬ不思議な思いに打たれた。もしも十市皇女もまた高市皇子を憎からず思っていたとすれば、十市皇女が自ら切り開いて行こうとした運命を、周囲の者が横から大きくねじ曲げてしまったことになる。こう考えて来ると、額田には高市皇子の姿が全く異なったものとして瞼に浮かんで来た。十市皇女が大友皇子の妃となる日、館を脱け出して一人湖畔に立っていたことも、それから額田の姿を見てあのような行為に出たことも、なべて哀れに思われた。
そしてまた大友皇子の妃となった十市皇女に対しても、母として何とも言われぬ哀れなものを感じた。しかし、高市皇子の場合はともかく、十市皇女については額田の憶測を出ない事であった。大友皇子に好感を持っていなかったことは明らかであったが、高市皇子に対して特別な思いを持っていたかどうかは、誰にも判らぬことであった。
この高市皇子の事件はその後何日か額田の心を冷たくかげらせた。額田は高市皇子のことを思い出すと、すぐそんぽ思いを遠くに押しった。押し遣ることで耐えられることであった。何と言っても、年端としはも行かぬ若い皇子の失恋事件に過ぎず、若い皇子の心の痛手もさして案ずることもなく、日が遠ざかることに依っていやされて行くに違いないと思われた。そして額田は、ひたすら十市皇女の心の中に大友皇子に対する妃としての愛情の生まれることを念じていた。
2021/06/15
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