~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
近 江 の 海 (2-04)
額田は十人程の侍女たちと一つの幔幕の中に入り、そこで身支度みじたくすると、侍女たちと広い原野の中に入って行った。恰好かっこうな場所が選ばれて、侍女たちの手でむしろが敷かれ、日覆ひよけが立てられた。
辺りには、あちこちと同じような席が造られていた。額田の知っている妃の席もあれば、知らない女官たちの席もあった。お互いに相手に気がねしてか、席と席とはそれぞれ適当な間隔をあけていた。従って。時折、風に乗った笑い声が聞こえて来るくらいで、話し声は聞こえなかった。
「あれは大友皇子さまのお席でございましょう」
侍女の一人が言ったので、額田はその方へ視線を投げた。そう言われてみれば大友皇子の席に違いなかった。二十人ほどの賑やかな一団で、その中に大友皇子の姿も見える。額田は母としての本能で、十市皇女の姿を探した。ひとりひとり女たちの姿に眼を当てて行ったが、どういうものか十市皇女の姿は発見できなかった。
額田は自分が気付いた時はもう立ち上がっていた。どうして十市皇女の姿が見えないか、そのことを確かめずにはいられない気持だったのである。
「大友皇子さまに御挨拶して参りましょう」
額田は言うと、すぐ自分たちの席を離れた。そして数歩も歩かないうちに足を停めた。数人の侍女たちに取り巻かれるようにして、向こうからやって来る十市皇女の姿が見えたからである。
額田はほっとした。何の案ずべきこともなかったと思った。そして、すぐ自分の席に戻ろうとしたが、その時、一つの小さい事件が起きた。十市皇女がめまいでも覚えたように、その場にくずれるように身をかがめたからである。額田は“あっ”というような小さい叫びを耳にしたような気がしたが、それは額田の気のせいで、実際には十市皇女の口からはそのような叫びは発せられなかったかも知れない。
額田は立ちつくしていた。十市皇女の方へ近寄って行こうか行くまいか、心に決めかねていたのである。自分が行かなくても大勢の侍女たちが十市皇女を取り巻いていた。
この時、もう一つの事件が重なって起こった。額田は大友皇子が十市皇女の方へけ寄って行くのを見た。十市皇女の身に変事が起こったことを知って、大友皇子は彼女の方へ駈け寄って行ったのであって、これには何の不思議もなかったが、事件とおうのはこれと並行して起こったのである。額田は見た。身を屈めている十市皇女のかたわらに、反対の方角からもう一人の男が駈け寄って行ったのである。高市皇子であった。
大友皇子と高市皇子は、身を屈めている十市皇女をまん中にはさんで、かい合って立っていた。対かい合って立っていたと言っても、それは極く短い時間であったに違いないが、額田にはひどく長いものに感じられた。しかも、二人の皇子が対決でもするように、互いに相手の顔を見入っているように見えた。妙に緊迫したものが、その情景の中にはあった。大友皇子はいかなる男たちにもひけをとらぬほど堂々たる体格をしており、高市皇子の方はどこから見ても、まだおさなさの脱けない十五歳の少年であった。大人と子供が‏あみ合ってでもいるようなその場の情景であったが、額田のはそうは見えなかった。もうすっかり成熟した一人前の男と男が、果し合いでもするように、対い合って立っているように見えたのである。
が、次の瞬間、額田の眼に映ったものは、背をひるがえし、ゆっくりした足取りで、その場から立ち去って行く高市皇子の姿であった。いつか湖畔の芦の中で見た、あのどこか傲然としたものを感じさる高市皇子の背後姿‏うしろすがたであった。すべては何の意味もないことであったかも知れない。額田がただそのように感じたことで、そこからいかなる意味も引き出すことの出来ぬ、事件とも言えぬ事件であったかも知れぬ。
しかし、額田はこの事件のために烈しい疲労を感じた。十市皇女は、あの時、ふとどこか遠くに高市皇子の姿を見て、はっとして、あのような眩暈めまいを覚えたのではないかと思った。それに違いないと思った。額田には蒲生野の遊猟は別のものになった。侍女たちと、この日一日を楽しく無心に過ごそうと思っていたのであるが、急に辺りは色彩を失った、冷んやりとしたものに変わった。
2021/06/16
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