額田を襲った冷たく暗い気持ちは、そう長い間のことではなかった。大友皇子と十市皇女が夏花の咲き乱れている野に連れ立って出て行く姿を見たからである。そうした二人の姿は、額田の眼には睦まじい一組の若い皇子とその妃以外の何ものにも映らなかった。十市皇女の背後姿は、ほんの少し前に額田の眼に映った事件とは凡およそ無縁だった。
額田の心は明るくなった。あの若い男女には何の暗い影もないのだ。すべては杞憂きゆうに過ぎなかったのである。十市皇女はあの時眩暈に襲われたのかも知れなかったが、それはあの時だけのことで、もうすっかり正常な状態に復し、この山野の行楽を楽しもうとしている。
額田は母の心で若い二人を見送っていた。今の額田の心からは高市皇子のことは跡形なく消えていた。十市皇女が大友皇子との結びつきに於いて仕合せであることがすべてであった。それに較べれば、高市皇子の問題など取るに足らぬことであった。たかが、年端も行かぬ少年皇子の、やがてはその意味さえ失ってしまう小さい失恋事件に過ぎなかった。
さあ、自分も山野の行楽を楽しもうと、額田は思った。蒲生野に散っている陽ひの光も、蒲生野を渡っている風の音も、再び異なったものになった。
額田は侍女たちに自由に行動するように命じて、自分は自分で足の向く方に歩いていた。若い皇子と妃が連れ立って行った方角とは反対の方向を目指した。どこへ歩いて行こうと、この日は心配というものはなかった。蒲生野一帯の広い山野は、護衛の兵たちに依って遠巻きにされており、その姿は見えないが、到るところに野守のもりは配されている筈であった。女ひとりでどこを歩こうと、いささかの危険もない安全地帯であった。それに、どこへ行って、どこへ眼を遣やろうと、必ず遠くのどこかに人の姿は見えた。たくさんの男や女たちが広い原野に散っているのである。
額田は紫草に生えている野を歩いて行った。紫草は白い小さい花をつけている。その中に足を踏み込むのが躊躇ちゅうちょされるような可憐かれんな花である。紫草は根を紫色の染料にすると聞いているが、小さい白い花を見ていると、額田にはどうしても紫色の連想は浮かばなかった。
額田は紫草の絨毯じゅうたんの上を歩いて行った。紫草の野はどこまでも拡がっていた。栽培したものか、野生のものか判らなかった。額田は時々風に乗って来る人声を聞いて足を停めた。どこにも近くに人影はなかった。ただ遠くの方に女たちの小さい姿が見えた。それも一ヵ所ではなかった。あちこちに女たちの衣服が小さい花でも撒まき散らしたように見えている。
額田は、やがて天智天皇の御座所はどこに造られているのであろうかと思った。その御座所の周辺には大勢の妃たちの席も設けられているであろう。倭姫王やまとのひめおおぎみの顔が、姪娘めいのいらつめの、橘娘たちばなのいらつめの、常陸娘ひたちのいらつめの、宅子娘やかこのいらつめの、それぞれの顔が浮かんだ。たくさんの皇子や皇女のそこらを走り廻っている姿も浮かんで来た。
が、自分は今、ここを歩いている、と額田は思った。なぜたくさんの妃たちやその一族の賑やかな情景を思い描いたあとで、すぐ思いは自分の所へ戻って来たのだろう。額田は自分の心の内部を確かめてみるために、足を停めた。依然として、あたり一面に白い小さな花が咲きこぼれている。
紫野行き しめ野行き
額田は口誦くちずさんだ。別に歌を作ろうとして口誦さんだのではなかった。ふいにその言葉だけが唇くちびるにのぼって来たのである。ああ、自分は紫草の野を歩いている。標しるしを立てて人の立ち入りを禁止している野を歩いている。紫野を歩いており、しめ野を歩いている。そしてなお歩いて行こうとしている。ひとりで歩いて行こうとしている。天智天皇とその妃たちの賑やかな一団の行楽の情景を思い描いたあとで、額田はそれと対照的に紫野を行き、しめ野を行きつつある自分に気付いたのである。気付いたというより、自分で自分にそうしや己を意識させたのである。
額田はあたりを見廻した。腰を降ろそうと思った。しかいs、白く小さい花の野を荒らすことを思うと、それも心ないことに思われた。その時、額田はこちらに馬を走らせて来る者のあるのを見た。今日の狩猟に加わっている狩人か、或いは野守か、そうした者であろうと思っていたが、次第に大きくなってくるその姿は卑しい者のそれではなかった。
額田はその姿を見守ったまま立ち竦すくんでいた。大海人皇子の騎馬姿に似ていたからである。馬は大きく半円を描くようにしながら、次第にこちらとの距離を縮めて来る。額田は馬の走らせ方から見て大海人皇子に違いないと思った。
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2021/06/18 |
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