やがて馬は紫草の野を何の容赦もなく踏み荒らしながらやって来た。額田は依然として、そこに立ち竦んでいた。逃げ出してもどうなるものでもなかった。相手の近付いて来るのを、立ったまま迎える以外仕方なかったのである。
大海人皇子は額田から一間ほどのところで馬を停めると、身を宙に浮かせるようにして地面に降り立つと、
「ひとりか」
と、最初の言葉を口から出した。
「ひとりではございません。大勢の者と一緒でございます」
「誰の姿も見えぬではないか」
「いいえ、大勢の方のお姿を眼に描いておりました」
それから、
「鸕野皇女、大江皇女、新田部皇女にいたべのひめみこ、氷上娘ひかみのいらつめ」
「もうよい」
大海人皇子は遮さえぎろうとしたが、
「それから ──」
「もうよい」
「あとは、どなたでございました。ああ、そうそう、五百重娘いおえのいらつめ、尼子娘」
「もうよい」
「まだございます」
額田は、しかし、これで大海人皇子の妃たちの名を挙げることは打ち切って、
「このような場所で、お目にかっかっておりましては、あの美しい鸕野皇女のお咎とがめを受けます」
実際に額田は、一刻も早く大海人皇子に立ち去って貰もらわねばならぬと思った。
「邪慳じゃけんなことを言うな、それほど人目が怖こわいのなら、誰の眼も届かぬ所に連れて行ってやる」
「何をおっしゃいます」
「そなたのために馬を持って来た」
「大海人皇子さまともあろうお方が為なさることではございませぬ」
「馬に乗せてやる」
それから大海人皇子は、急に思い出したように笑いだして、
「大海人も年を取って分別が出来た。このように分別が出来れば、額田をどこへ運んで行くことも出来ぬだろう」
この言葉で、額田はほっとした。
「確かに御分別がお出来になりました」
「昔なら、いきなり横抱きにして運んで行ってしまった」
額田とて、大海人皇子に地面からすくい上げられるようにして拉らつし去られた夜のことを忘れている筈はなかった。しかし、それについての応答はしなかった。触れてはならぬ危険なものがあるように思われた。そうした額田の気遣きづかいに拘かかわらず危険はすぐにやって来た。額田は二、三歩あとに退がった。大海人皇子の烈しい眼がまっすぐに自分を射抜いているのを額田は感じた。額田はまたあとに退がった。
「大勢の人が見ております」
それから額田は絶望的な思いで辺りを見廻した。次の瞬間、大海人皇子ははじかれたように額田の許もとを離れると、
「誰かこっちへやって来る。残念だが大海人は退散する」
言うや否や、大海人皇子は馬にまたがった。
「他日、汝の館に出向いて行く」
その言葉だけをあとに残して、すぐ馬は駈け出して行った。やって来方も早かったが、退散の仕方も早かった。
額田は去って行く大海人皇子の姿を見送っていた。一度大海人はこちらを振り返って、袖そでを大きく振るようにしtが、あとは刻一刻、その姿を小さくして行った。
額田は大海人皇子を退散させたものが何か知らなかった。その方へ眼を遣やれば、それが何であるか判ったが、すぐにはそうしなかった。不自然になりそうな気がしたからである。そして暫しばらくしてから、ゆっくりと視線を辺りに投げた。さして遠くないところを、二、三十人の騎馬の一団が遠ざかりつつあるのが見えた。そのほかに原野はこれと言って変事は起こっていなかったので、大海人皇子はその一団がこちらに近寄って来ると思って、あのような行動をとったものと思われた。
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2021/06/18 |
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