~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
近 江 の 海 (2-07)
額田は自分の席の方へ戻り出した。侍女たちと一緒に野花でも摘んでいる方が無難だと思った。
額田は途中で侍女たちの出迎えを受けた。
「どこへいらっしゃいましたか、お姿が見えなかったので御案じいたしておりました」
一人が言うと、
「手分けしておさがしいたしたのでございますが」
もう一人が言った。
「紫草の咲いている所に居りました。あまりきれいだったので」
それから、
「今日は、ひとのことなど心配しないで、自由に振舞っていいと申してあったのに」
多少とがめ立ての口調で言うと、
「貴いお方がお見廻りになるというしらせらございましたので」
額田ははっとした。
「それで ──」
「さきほど、次々にこのあたりのお席を、お見廻りになって、お帰り遊ばしました」
「おひとかたで?」
「いいえ、お馬に召したままで、この辺りをお見廻りになり ── 二十騎ほどのお供をお連れになっていらっしゃいました」
額田は、なるほど大海人皇子が周章あわてて退散したはずだと思った。さっき原野を走り去って行った一団は、天智天皇と供奉ぐぶの朝臣たちだったのである。
三度みたび、蒲生野は額田には違ったっものに感じられた。見渡す限りの美しい原野は夏のに輝き、そこをさわやかな風が渡っていたが、額田には陽の光も、風の音も、すべて空虚なものに思えた。楽しさは消え、救いようのない淋しさと不安な思いが額田をとらえていた。
額田は侍女たちに誘われて、夏草の野を花を求めて歩いた。何も知らぬ雑草が赤や黄の小さい花をつけている。侍女たちはそれを摘んで、花の輪を作ろうとしている。花を摘んでいるのは額田たちばかりではなかった。あちこちに花摘みの女たちの姿があった。
額田は一つの思いから自由になることは出来なかった。自分と大海人皇子が語らっているところを、天智天皇は見たに違いないと思った。もし天皇があの情景を眼に収めたら、それをどのような意味にとるであろうか。自分と大海人皇子はほとんど体を触れんばかりにして、かい合っていたのである。あの時天皇の一団はこちらに近付きつつあったのである。大海人皇子があれほど周章てるくらいであるから、よほど近いところをあの一団は通過して行ったのに違いない。
額田は絶望的な思いを持った。二人が野のまん中に立っているところをちらっと眼に収めると、いきなり馬首を返して行く天智天皇の姿が見えるようであった。け去って行く天皇の心を、見てはならぬものを見た、そんな思いがよぎっている。ああ! 額田は野の草の上に膝を折った。侍女が駈け寄って来た。額田は侍女たちに取り囲まれて自分たちの席に戻って、日覆ひおおいの下に入った。
原野のどこかで銅鑼どらの音がしている。この日の行楽の行事の一つを しらせる合図であろう。女や子供たちの出来るいろいろな遊戯も計画されているし、軽業かるわざもあれば、大勢の女たちによる輪舞もあるはずである。個人の武技もあれば、集団の武技もある。
銅鑼は相変わらず鳴り続けている。
「何か面白いことがあるであよう。みんな行っていらっしゃい。気分はよくなったけど、わたしは用心して、もう暫くここにこうしていましょう」
額田は侍女一人を残して、他を追い立てるようにして、原野のどこかに設けられてある競技場や園芸場の方へ赴かせた。暫く原野は移動して行く女や子供たちの姿で賑わった。中にはせっかく張った日覆いまで片付けて、本格的に移動して行く組もあった。
やがて原野は静かになった。あちこちに日覆いは張られてあったが、大抵のところは空っぽであった。人影はなく無人の日覆いだけが点々と散らばっている。額田は長い間、日覆いの下に坐っていたが、やがて、そこから出て、さっきい歩いた紫草の野の方まで再び足をのばした。
紫野行き しめ野行き
額田の口からまたそういう歌の一句が出て来た。あとは続かなかった。さっきこの一句を口誦くちずさんだ時とは、いまの額田の気持は異なっていた。さっきは大勢の妃たちに取り巻かれている今日の行楽における天皇の身辺の賑々にぎにぎしさを思い浮かべたあとであったが、今度は全く異なっていた。天智天皇に誤解されてるかも知れないという思いのもとに、不意に唇にのぼって来た一句であった。
紫野行き しめ野行き
額田は当所あてどなく歩いていた。淋しく、救われぬ思いを持って、紫野を行き、しめ野を行きつつあったのである。
2021/06/22
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