~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
近 江 の 海 (2-08)
陽がそろそろ西に傾こうとする頃、一日の行楽は終わり、朝都を出て来た時と同じように、一行は幾つかの集団になって、蒲生野をあとにした。今朝降りた波止場から船に乗った。途中一行は湖北に向かって空の高処を飛んでいる渡り鳥の大群を見た。それはけし粒でも振りいたように、鳥とは思えぬ小ささで眼に映った。船が湖岸に沿い始めた頃、夕暮が迫って来て、湖面のところどころで魚のねる音が聞こえた。
都へ入った時は、長い夏の日も昏れ、都大路には夕陽が深く垂れ込めていた。一行はそのまま王宮の中に入り、湖の見える広庭に設けられていっる宴席の中に吸い込まれて行った。
広い宴席には、そこを取り巻くようにしてたくさんの篝火かがりびかれており、辺りは昼をも欺くような明るさであった。幼い皇子、皇女たちは除いて、今日の行楽に加わった者のことごとくがこの席につらなる筈であった。それぞれが所定の席に就くまで多少の混乱があったが、やがてそれもしずまった。
額田は湖面を背にする位置に、侍女たちを背後にしたがえて座をとっていた。額田のところから玉座は遠く、天皇の姿を拝することは出来なかった。大海人皇子の席も同じように遠く、この方もどこに大海人皇子が居るか見当がつかなかった。時々篝火の光が強くなることがあって、その時だけその席に居る男たちや女たちの姿が浮かび上がった。と言って、そこに居る一人一人の顔が見えるというわけではなかった。一団の人々が一つの賑々しい固まりとなって、不意に暗い中から見えて来るだけのことであった。
酒宴は賑やかに続けられた。上下の別を取り外した無礼講の行楽の一日は未だ終わっていなかった。宮中で開かれているいかなる宴席も持たぬのびのびしたものが、宴席の周囲を埋めている闇の中にさえ感じられた。
やがて、今日の行楽に取材した歌を披露する時が近付いて来た。天皇の指名で最初の一人が立って自分の歌を披露する。次はその最初の詠歌者によって指名された者が立たなければならなかった。そして次々に前の詠歌者によって次の詠歌者が指名されて行く。従ってここに居る者は、誰もがいつ自分に白羽の矢が立てられるかもわからないという不安にさらされねばならないかった。いずれにしても、歌才のない者には迷惑千万な話しであった。こうした行事にあることは前以て判っていることであり、誰もこれまでに歌の一首や二首は用意しておかねばならないわけであったが、急に宴席がざわみき出したところをみると、それは用意の出来ていない者が多いということであった。
額田は用意の出来ていない一人であった。しかし、額田は他の者のように周章てたりあせったりすることはなかった。;作ろうと思えば、今この瞬間でもたちどころに何首でも生み出す事が出来た。
あかねさす 紫野行き しめ野行き
額田は口の中で言った。今日一日、何回となく額田の口をついて出て来た歌のかみ半分だった。あとのしも半分は作ろうと思えば、すぐにでも幾通りにでも作ることが出来た。ただその幾通りもの中から一つを選ばなければならぬだけのことだる。
やがて宴席は水を打ったように静かになった。一人の武臣が選ばれた。容貌魁偉ようぼうかいいおよそ歌などとは無縁な風貌を持った人物であった。彼は立ち上がると、割れ返るような大きな声で、自分の歌をみ上げた。それは歌を読み上げるというようなものではなく、訳の判らぬことを怒鳴どなってでもいるかのように見えた。蒲生野で一日花を摘んで暮らした。いつかもう一度この楽しさを繰り返したい、そんな歌であった。どう考えても誰かに作ってもらった歌であり、女の歌であった。暫くってから笑い声が起こり、それは暫くやまなかった。
次は老女官に白羽の矢が立った。老女官の顔は篝火の光で見ると、鬼女の面のように見えた。おそろしく不気味に見えた。この方は自分で作ったものであろうとは思われたが、よく歌の心が判らなかった。今日の蒲生野遊猟の盛事は光り輝き、その光は永遠に消えることはないだろうというような意味であると思われたが、はっきりしなかった。
次々に何人かが立った。歌になっているものもあり、なっていないのもあった。
2021/06/23
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