~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
近 江 の 海 (2-09)
やがて、額田は顔を上げた。自分の名が呼ばれたからである。額田は立ち上がって宴席の真ん中に出、玉座の方に礼をした。そして、いま天皇は自分の方に眼を向けておられるに違いないと思った時、不意に額田は今まで考えていたとは全く違った歌を口から出そうと思ったのであった。瞬時にして歌はまとまった。歌の方が自分から額田の頭の中に飛び込んで来たようなものであった。額田は天皇に話しかける言葉を、そのまま歌の形に整えたのである。
茜さす
紫野行き
しめ野行き
野守は見ずや
君が袖振る
額田はゆっくりとうたった。星のまたたいている夜空は高く暗く、宴席だけが明るかった。額田は自分の歌声が明るい宴席から、高く暗い夜空に上って行くのを感じた。茜色のにおっている紫野を行き、しめ野を行く。遠くで君が袖を振っている。その大胆な仕種しぐさを、森番は見ていないであろうか。
額田はもう一度詠った。今度は歌声は宴席を割って天智天皇の方へ流れて行った。少なくとも額田にはそう思われた。この歌は誰に対して詠ったものでもないかった。て中大兄皇子である天智天皇に呈するためのものであったのである。お聞かせしましょうか。こんなことがございましたのよ。茜の匂うような紫野を行き、しめ野を行きました。そしたらあの方が遠くで袖をお振りになりました。森番が見ていないかと心配でした。でも、こんなことを申し上げるわたくしの気持はお判りでございましょう。誰に判らなくても、あなたにだけはお判りの筈でございます。
額田は自分の席に戻って、長い間心は落ち着かなかった。天智天皇の誤解を解きたくて作った筈の歌であったが、それと同時に図らずもそれが愛の歌になっていることに気付いたからである。
大海人皇子の自分に対する求愛を詠い、そしてまたそれを自分の方も憎からず思っている、といった調子に整えていながら、実はそれが、これを呈する天皇への愛の歌になっていたからである。
宴席は水を打ったように静かであった。額田が大胆な恋歌を発表したと思ったからである。一体“きみが袖ふる”の君は誰であろうか。誰もこのことに関心持たずにはいられなかった。額田に対して袖を振った人こそ額田の意中の人である。誰もがそう思った。
額田はこの歌は誰に判らなくても、天智天皇だけには判って貰えるに違いないと思った。天智天皇に判らぬはずはないと思った。
額田が立ってから何人目かに、大海人皇子の名が呼ばれた。やがて額田は宴席の真ん中に現れる大海人皇子に眼を当てていた。大海人皇子がいkなる歌を詠うか興味があったからである。
紫草むらさき
にほへる妹を
憎くあらば
人妻ゆゑに
われ恋ひめやも
歌は繰り返されて詠われた。額田は聞いていた。確かにそう聞こえたのである。紫草からとれる美しい紫色のように、匂うような君を憎く思っていたら、人妻でもあるのだから、どうして恋い慕いましょう。憎くないからこそ、人妻であろうとなかろうと、そんなことにお構いなく、このように恋しているのです。
一座の者には、これもまた、額田に劣らず大胆な恋歌として受け取られた。“紫草”という詠い出しに依って、一座に居る誰もが、これが額田に対して詠われたものであると思ったのは当然であった。額田の歌に対して、まるでその応答歌ででもあるかのような、大海人皇子の歌なのである。
しかし、その歌の持った大胆さが人を驚かせはしたが、不思議にそれは深刻なものとしては受け取られなかった。いかにも額田と大海人皇子が企んで、座興としてたわむれに恋の歌のやりとりをしているとしか思われなかった。大海人皇子の何人かの妃たちもそこに居合わせていたが、おそらく誰もたわむれの恋歌以上のものとは感じなかったに違いない。
2021/06/23
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