~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
兵 鼓 (1-02)
しかし、この時期の遊宴は必ずしもこうしたものばかりではなかった。宮中に開かれたある宴席に於てのことである。この宴には主だった朝臣朝武のことごとくが列席していたが、宴半ばにして大海人皇子は立ち上がって廻廊へ出た。そうした大海人皇子の背後姿うしろすがたは誰の眼にも酒気を帯びており、足許あしもとは危なく見えた。
再び大海人皇子がその席に姿を現した時、一座の者ははっとした。大海人皇子は長槍ちょうそうを小脇にかかえるようにして、宴席の入口に立っていた。
何人かの者が立ち上がった。異様な格好かっこうでもあり、異様な形相でもあり、たとえそれが座興であるにしても、場所柄として到底許されぬことであった。何人かが大海人皇子にけ寄って行った時、人々が制止する寸前、あたかもそれを見計らっていたように、
── ええい!
という掛け声と一緒に槍は大海人皇子の手許を離れ、床を目指してはしった。槍の穂先は宴席の中央部の床に突き刺さり、長い柄が大きく揺れて静止した。一瞬の出来事であった。一座の者は総立ちになった。
「狂いおったか、大海人!」
天智天皇は立ち上がった。満面朱を帯びていた。天皇の怒りは当然であった。楽しい宴席の中央部に長槍は投げられたのであり、それは誰の眼にも天皇に対する大海人の挑戦としか受け取れなかった。
「狂った者は、不憫ふびんだが制裁する。そこに直れ」
すると大海人皇子はそこに古坐こざした。傲然ごうぜんたる感じだった。こんどは天皇が刀のつかに手をかけた。が、すぐ天皇は背後から抱きかかえられた。
「誰か、離せ」
すると、
「これを離してよろしゅうございましょうか。鎌足、命にかけておとめいたします」
それから、
「大海人皇子は酒のゆえの御乱心とお見受けいたします。今日よりは、鎌足がお勧めしまして、酒を断っていただくことにいたします。よく今まで御自分の妃や皇子のお命が無事だったことでございます。おお、恐や、恐や」
鎌足は言って、それから暫くして、天智天皇を抱えていた手を離した。それと一緒に天皇はくずれるように座にいた。怒りで顔面は蒼白そうはくになっていたが、明らかに激情は峠を越していた。天皇らしい早い冷静への立ち直りであった。
酩酊者めいていしゃは見苦しい。連れ去れ」
その天皇の言葉より前に、鎌足は床に胡座している大海人皇子に近寄っていた。大海人皇子は鎌足によって席から連れ出された。
この事件はこれで済んだが、誰にもこの事件の真相は判らなかった。もし判っている者があるとすれば、天智天皇か鎌足であろうが、実際のことは二人にも判らなかった。事件の直後、天智天皇と鎌足との間には次のような言葉が交わされた。
「何が大海人皇子をあのようにさせたのか。酒気を帯びてはいたが」
「酩酊はしていたと思いますが、それだけでは」
「汝もそう思うか。何か思い当てることはないか」
「それが、ないから厄介でございます」
確かに二人にも判らなかったのである。このうわさを聞いた額田女王にもまた判らなかった。額田はその席に居合わせなかったので、その時の様子を人の口から聞く以外仕方なかったが、こともあろうに長槍を床に突き刺すというようなことは、明らかに常軌を逸した行為であった。酩酊した上での行為であったとして、ただそれだけでは片付けられぬ問題であった。
その場に居合わせた朝臣、武臣たちの誰にも、事情は一切判らなかった。ただ判ることは、たとえ酩酊していたとしても、大海人皇子が天智天皇に対して心穏やかならざるものがあるに違いないということであった。が、その心穏やかならざるものの正体が何であるかということになると、全く五里霧中であった。
当の大海人皇子には、その後いかなる変化も見られなかった。一座の者を総立ちにさせた己が行為を全く忘れ去ってしまっているのではないかと思われる程、廟堂びょうどうおいても、館に於いてもその言動、挙措動作にいささかの変わったところも見られなかった。以前の大海人皇子と少しも変わっていなかった。
2021/06/27
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