~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
兵 鼓 (1-03)
この事件があってから暫くして高句麗こおくりの使者が北陸の海岸に着き、都に上って来て貢物みつぎものを奉った。使者はすぐに帰国するために着岸地におもむいたが、風波が高く船出することが出来ず、暫くそこに留まっていなければならなかった。この高句麗の使者の報告で、近江朝廷は最近の半島の情勢を知ることが出来た。
唐と新羅しらぎの連合軍は今や高句麗征討の大作戦を展開しようとしており、高句麗は国をげて外敵に対抗しようとしていたがその前途に対する見透‭みとおしというものが全く暗いというほかはなかた。いずれにしても、この半島の情勢は、近江朝廷にとって、決して無関心でいられるものではなかった。唐はこれまで近江朝に対して友好的な態度を見せて来てはいたが、もし高句麗がほろんでしまうようなことがあったら、そのあとは如何いかなる態度で臨んで来るか、まさに予断を許さぬものがあった。新しく唐軍の脅威が近江朝廷の首脳者たちを襲った。
近江の原野では、毎日のように兵団の訓練が烈しく行われていた。これまでも訓練は、倭に都があった時より烈しくなっていたが、それに輪がかけられた格好であった。こうしたことは一切大海人皇子が取り仕切っていた。一に武技、二に武技、三に武技、── これが大海人皇子の兵団への一貫したかい方であった。こうしたことに寧日ねいじつない大海人皇子を見ていると、誰も曽ての長槍事件とは全くの無関係な人物に見えた。
また近江の都の周辺では馬の飼育が盛んに行われていた。驚くほどの数の馬が飼育されていることは、それを見る人々にある不安な思いをいだかせた。近江中が牧場になってしまうのではないかと思うほど、牧場はやたらに新しく設けられていた。
朝廷には遊宴が多く、都の周辺の山野には兵と馬の動きが多かった。こうしたことを民たちは黙っては見ていなかった。
── どうもただ事ではない。天皇の御命もそう長くはないのではないか。
陰ではそんなことさえ、ささやく者もあった。この頃になってまた多くなった徴兵、徴用に対して民の不満はこのような形で現れていたのである。

秋九月、新羅から使者金東厳こんとうごん等が朝貢使としてやって来た。朝廷では新羅使節を出来る限りの鄭重ていちょうさで遇した。彼等の言うとことに依ると高句麗滅亡はもはや時日の問題であった。
── 高句麗滅亡後の半島はかえって今までよりむずかしい段階に入りましょう。
使者は言った。新羅はこれまで唐の軍と協力して高句麗征討に当たって来たが、高句麗滅亡のあと、唐が本格的に半島経営の野心を現して来ることは必至で、それをいかにさばくかが、これからの新羅に課せられた問題である。そう言う意味のことを使者は言外にほのめかした。
これは近江朝廷の知る新しい半島情勢であった。高句麗の使者によって得た半島に関する考え方は、またここでも多少変更しなけてばならなかった。新羅使節の言うように、確かにこれからは新羅と唐が互いに半島の権益を争う時代になるかも知れなかった。こうした見方をすれば高句麗滅亡後の半島にはまた新しく戦雲がみなぎる筈であった。新羅の朝貢は複雑な意味を持っていた。曽ては白村江はくすきのえの戦で倭兵わへいと兵火を交えてはいたが、いまは親交の手を差しのべて来るだけの理由はあるようであった。
近江朝廷は、いずれにしても、こうした将来いかなる立場に立つか判らぬ新羅に対して、当たらずさわらずの態度で接しなければならなかった。近江朝廷では新羅王や新羅の大臣にそれぞれ船一隻を贈ることにし、それを新羅使節に託することにした。新羅使節は十一月に帰国の途に就いたが、近江朝廷は、この時もまた新羅王へ贈り物として絹五十匹、綿五百斤、おしかわ一百枚を追加した。
新羅使節が帰ってから、間もなく近江朝廷は、十月に高句麗が大唐の軍に攻められて滅亡したことを知った。高句麗は国をてて七百年にして亡んだのであった。
2021/06/28
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