~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
兵 鼓 (1-04)
年改まると、天智天皇の八年である。正月早々、蘇我赤兄が筑紫太宰帥つくしだざいのそつとして筑紫に下ることになった。蘇我赤兄はむすめを天智天皇と大海人皇子にれており、今や近江朝に重きをなす地位にあった。その赤兄が筑紫に下ることは、半島の新しい情勢に対する措置であった。
蘇我赤兄は筑紫に赴くに先立って、額田女王のもとに挨拶あいさつに来た。額田は有間皇子の事件から、この人物に好感を持っていなかった。額田が好感を持たないくらいだから、赤兄の方も額田には好感を持っていなかった。そうしたことはお互いに判っている筈であった。
その赤兄が挨拶に来たことに額田は不審な思いを持った。挨拶に来るには、挨拶に来るだけの理由がなければならなかった。
「大友皇子の妃に十市皇女をお配しになりましたことは、何と申しましても、国家のためによろこばしいことでございました。天皇の第一皇子と大海人皇子の第一皇女との御縁組でございました。赤兄は、これで何の心配もすることなく、筑紫に下る事が出来ます。何と申せ、大友皇子は、非凡な御器量でございます。お体格もおみごとであれば、その御見識も、近江朝におきましては、皇子の右に出る者はございますまい」
蘇我赤兄は、やたらに大友皇子を口を極めて賞讃して帰って行った。その賞讃の仕方が額田には気になった。額田としては、十市皇女を納れている皇子がめられるので、悪い気持ちはしなかったが、不安でもあり、不気味でもあった。大海人皇子が聞いたら不快ではないかと思うような褒め方であった。
三月に耽羅たんらの王子久麻伎くまぎが朝貢使としてやって来た。半島の新しい情勢に対してこれといって手の打ちようのない耽羅としては、さしずめ近江朝廷によしみを通じることを得策と考えたのであった。近江朝では久麻伎に五穀の種子を賜った。久麻伎は七日都に居ただけで、国のことが気になるのか、早々にして帰って行った。
五月、朝廷では山科やましな遊猟のことがあった。大海人皇子、鎌足を初めとして百官の群臣のことごとくが加わった。
八月、朝廷では高安山たかやすのやま城砦じょうさいを造ることを議した。天皇自ら高安山に登って、その地形を眼に収めた。これも半島の新情勢に備えての措置であったが、しかし、このことは間もなく取りやめになった。高安山築城のことが発表されると、それに対する批判と怨嗟えんさの声が起こることは必定ひつじょうであった。
「もうしばらく先のことにしたら、いかがなものでございましょう」
鎌足が言ったので、一応築城工事は延期になったのであったが、これに対して廟議びょうぎは二つに分かれてといううわさがあった。天皇と大海人皇子の意見が対立したということであったが、いずれが築城を主唱し、いずれが築城に反対したか、そのことは判らなかった。この場合に限らず、いろいろな問題においての天皇と大海人皇子の対立が噂となって流れた。実際にそのようなことがあったのかどうか、誰も知らなかったが、そういう噂が一再ならず流れるというところに問題があった。
2021/06/28
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