~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
兵 鼓 (1-06)
天皇は鎌足の功にむくゆるために、大識冠だいしきのこうぶり大臣おおおみの位を賜ることにし、あわせて、藤原氏の姓をも贈った。このしらせを病床の鎌足に伝えたのは、大海人皇子であった。
大海人皇子の眼にもまた、鎌足は再び起つことが出来ない人として映った。大海人皇子は鎌足の女二人を妃としているばかりでなく、宮中の酒宴の際の狼藉を狼藉ろうぜきを鎌足によってかばわれていた。謂ってみれば、鎌足は義父でもあり、恩人でもあった。
十月十六日、藤原大臣鎌足はこうじた。五十六歳であった。十九日に天皇は鎌足のやしきに幸し、筑紫から戻っていた蘇我赤兄をして重臣の遺骸いがいに対して恩詔を伝えしめ、金の香炉を贈った。死んだ鎌足が仏の世界でいつも法を聞く時に手にするための香炉であった。葬儀は国を挙げての悲しみの中に行われ、鎌足は山科やましなの山の南麓なんろくに葬られた。民たちも鎌足が自分たちにとってかけ替えのない味方であったという証拠は持ち合わせていなかったが、事あるごとに耳にした名前であったので、やはりその人の死は悲しく思われたのである。
鎌足の死は近江朝廷における最も大きい柱が一本なくなったようなもので、こうした思いを廟堂びょうどうに列するすべての朝臣、武臣たちが持った。その中で最も大きい打撃を受けたのは言うまでもなく天智天皇であって、天皇はその悲歎ひたんから容易に抜け出ることは出来なかった。
鎌足の死から日が経つにつれて、天智天皇にとって廟堂は全く異なったものになった。天皇はあらゆることを大海人皇子と議さねばならなかった。大海人皇子が鎌足に代わって、ひと廻りもふた廻りも大きい存在になって立ちはだかって来るのを感じないわけには行かなかった。
十二月に王宮内の大蔵から出火した。平生火の気というものが全くないところからの出火であったので、当然放火によるものと見なければならなかった。
── 王宮内から不審火が出るというのは困ったことである。民への聞こえも面白くない。さて、さて、困ったことではある。
廟堂に於いて大海人皇子は言ったが、天皇はこれを聞いた時顔色を変えた。不審火の責任を、自分が大海人皇子によって指摘されたような思いを持ったからである。不審火が現下の施政方針に対する反抗の一つの現れであると見るなら、確かにそれは自分の責任とされても仕方ないものかも知れなかった。
── このような時、鎌足が居てくれたら。
天皇は思った。しかし、鎌足は居ず、鎌足の温顔に代わって大海人皇子の急に自信と威厳を持ち始めた顔があった。
鎌足亡き後の、最初の大きな事件は、一時据置になっていた高安城の修築を取り上げたことである。廟議において誰一人の反対もなく決定し、直ちにそれは実行に移された。一時据置になっていたのは、このために生ずる民の徴用から来る不平をおもんばかっての鎌足の考えから出たことであったが、今や半島の事態はそうしたことを許さないほど切迫したものとなっていた。大海人皇子が本格的に新羅しらぎと事を構えるとなると、どう考えても新羅に勝味のあろう筈はなかった。そして一番の問題は新羅をくだしたあとの唐軍の鉾先ほこさきがどこへ向かうかということであった。どこへも向かわないかも知れなかったし、かつての敵国である日本列島へ向かうかも知れなかった。こうしたことを考えると、高安城の修築一つでも、遷延させておくべき場合ではなかった。
それから高安城修築と共に、もう一つのことが廟堂でこれまた一人の反対もなしに可決され、直ちに実行に移された。大唐への親交使節の派遣であった。この際大唐への友好の意志を通じておくことは、おかないよりいいことに違いなかった。大唐国を刺戟しげきさせないだけの手は、打てるだけ打っておくべきであった。河内直鯨がその使者に選ばれ、大任を帯びて、大勢の従者と共に都を出て行った。
こうしたことがあってから間もなく、大和の法隆寺が炎上した。これも明らかに放火に依るものと思われた。
── 同じ火をつけるにしても斑鳩寺いかるがでらを火で包むようなことをするに到ってはおしまいである。仏がいます御寺を焼くとは、民の心がそれだけ洗ぶれていることの証拠であろう。
廟堂に於いて大海人は発言した。大海人皇子の言うことに間違いはなかった。その通りであった。 しかし、この時もまた天皇は自分の顔から血の気が引いて行くのが判った。怒りのためにひざの上に置いてある手が細かく震えた。
天皇は辛うじてたぎり立って来る怒りに耐える事が出来た。もし鎌足が居たら、怒りに耐えることは出来なかったに違いないが、鎌足の居ない今、怒りを発してしまったら、収拾のつかぬ事態が起こることは火を見るより明らかであった。
それにまた、心を冷静にして考えてみれば、大海人皇子は天皇に対してその責任を追及しているわけでもなけらば、嫌味いやみを言っているわけでもなかった。事にって来るところを、大海人皇子らしい烈しい言い方で言っているに過ぎなかった。ただ大海人皇子の発言が、鎌足の居ない廟堂では不思議に不穏なものとして、天皇には感じられるのであった。
2021/06/29
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