~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
兵 鼓 (1-07)
鎌足が薨じた年を、額田は忙しく暮らしていた。高安城の築城に関する神事もあれば、大唐へ使いする人たちのための神事もあった。
額田の耳にもちまたで噂されていることはみな伝わって来た。別段これと言って気にしなけらばならぬほどの悪質な流言はなかったが、鎌足の死に依って、これからの政治がいいものになるか、悪いものになるか、民の一人一人が聞き耳を立てているようなところが感じられた。こうした時期において、高安城築城は、当然のことながら民の一部には反感を持たれた。大蔵の火災も、法隆寺の火災も、これと無関係ではなかった。
この年の暮近くになって、十市皇女は男子を生み、葛野王かどののおおきみと名付けた。ちょうどその頃巷では怪しげな予言が行われていた。いつ半島から唐軍が押し寄せて来るとか、いつ大々的な兵の徴兵があるとか、そうしたことの予言者は一人や二人ではなかった。
額田はこうしたことが耳に入って来るたびに心を暗くした。天皇の治世はいささかの風波もなく、民のいかなる者からもよろこんで迎えられるものでなければならなかった。額田はそうした御代の到来を夢見ていた。夢見ているばかりでなく、心をこめて、朝な夕なに神に祈っていた。

天智天皇の九年は例年になく寒さの厳しい春を迎えた。年末から舞い続けていた雪は、年が改まっても、同じように宙を舞い、春らしいの光を見ることは出来なかった。雪は朝から晩まで舞っていたが積もることもなく、その代わりに寒さが厳しく、湖上は脱色されたような白っぽい波で埋められた。都大路には人影は少なく、浮浪者さえ、どこにかくれてしまったのか、その姿を見ることはなかった。
七月に宮城では、みことのりによって、士大夫たちの弓の競技が行われた。この日は長い間舞っていた雪が本格的な降雪に変わった日で、矢場は真白くなり、弓弦ゆづるの音だけがこやみなく落ちている雪の中をはしった。
十四日に、朝廷における礼儀のことが法令として定められ、その発表があった。また道路において行きう場合、民は貴人を、目下の者は目上の者を、若きは老いを避けなけらばならぬということも、法令の中に組み入れられてあった。それから、流言、予言を初めとするあらゆる妖偽ようぎが、これまた法令に依って禁じられた。法令によって禁じられるということは、それを犯す者は罰せられるということであった。
巷の民たちは急に身の周辺が窮屈になったのを覚えた。うっかりしたことをしゃべると、罪人としてごこかへ連れ去られて行くような思いに打たれ、
── 言うまいぞ。言うまいぞ。
互いに顔を合わせると、そんなことを言い合った。
二月に戸籍を造ることが発表された。戸籍造りは以前にも行われたが、いろいろなところに不備な点があったので、今度の法令はその完全を期すためのものであった。全国浦々の民たちは、これに依って住所と年齢と生業を届け出なければならなかった。当然のことながら浮浪者や流民というものは無くなるわけで、いかなる男女も民としての納税の義務を負わなければならなかった。これまた巷の民にはすこぶる窮屈な法令というほかなかった。良民も窮屈であったが、盗賊や無頼ぶらいの徒には一層窮屈であった。
こうしたことはすべて鎌足が中心になって、何年がかりかで慎重に起草し、何回も練りに練った法令であったが、それが鎌足の死後、発表になったのである。
この戸籍に関する発表があった後、幾許いくばくもなくして、修築なった高安城に莫大ばくだいな量のもみや塩が運び込まれたといううわさが流れた。一朝事あった際の兵糧ひょうりょうであるということであったが、民たちは、最早それに対する非難を今までのように公然とは口にすることは出来なかった。また長門なかとにも筑紫にも城を築くと言う発表があったが、これに対する不平も不満も大きい民の声とはならなかった。
続いて三月に、朝廷では近江の都から程遠からぬ山御井やまみいの泉の傍に神々をまつって、幣帛へいはくささ祝詞のりとを上げた。これは毎年のように行われることで、今年は山御井という特定の場所が選ばれたということに過ぎなかったが、人々には何かなし異常なものに感じられた。今年は春早々から容易ならぬことが次々に発表になったが、これからもまた驚天動地の施政方針が矢つぎ早やに発表になって行くに違いない。民たちはそうした思いを固めなばならなかった。
しかし、その後何事も起こらず、長い冬は終わって、いつか世は春になっていた。民たちは明るい陽光の散っている巷々を、貴人や役人と行き逢う度に頭を下げて、道を譲って歩いた行った。
2021/06/30
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