~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
兵 鼓 (1-08)
四月も終わろうという日の夜半、法隆寺から出火して、一宇いちう残らず灰になった。法隆寺の出火は半年前にもあり、その時も幾つかの堂宇が火に包まれたが、こんどの火災で全伽藍がらんが灰になってしまったのである。伽藍という伽藍が焼け落ちた頃を見計らったように、雷鳴がとどろき豪雨が見舞った。巷ではこの法隆寺の火災をふうする動揺が歌われた。必ずしも法隆寺の火災を諷しているようには思われなかったが、役人たちはこれを取り締まるのに躍起になった。子供たちは集団になって合唱しては、役人の姿を見ると、蜘蛛くもの子を散らすように四方に逃げた。
この年の後半は、何事もなく過ぎた。人々は驚天動地の出来事があるに違いないと思い込んでいたがその期待は裏切られた。強いて事件らしいものを拾えば阿曇連頬垂あずみのむらじつらたりが友好使節として新羅しらぎに派せられたぐらいのことであった。頬垂は、さきに新羅から使節を派せられて来たことに対する返礼ということをその表向きの使命としていたが、そればかりではなかった。その後の新羅と唐がいかなる関係にあるか、半島の情勢を打診するということが、言うまでもなく、その使命の主なるものであった。

年改まると、天智天皇の十年である。宮中の新年の賀宴は二日に行われ、筑紫の任を解かれた蘇我赤兄と巨勢人臣こせのひとのおみの二人が、群臣を代表して、天皇の前に進み出て、新年の賀を奏した。赤兄と人臣が賀正奏上の代表者になったことは、一般には鎌足亡きあとの臣下の序列を、それとなく明らかにしたものと見られた。
五日に中臣金連なかとみのかねのむらじによっておごそかに神事が執り行われ、その直後、こんどははっきりした形で重臣たちの序列の発表があった。
大友皇子が太政大臣に、蘇我赤兄が左大臣に、中臣金連が右大臣に、蘇我果安臣はたやすのおみ、巨勢人臣、紀大人臣きのうしのおみがそれぞれ御史大夫ぎょしたいふに任ぜられた。並みにいる朝臣武臣たちは身を固くして、一声も発しなかった。すべては彼等がどこかで予想していたことが行われのであり、その意味では別段驚くべきことではなかったが、やはりそうであったかという感慨だけはあった。その感慨が彼等を妙に物憂ものうく、しんとした思いにさせた。
廟堂びょうどうに於いて、最も上の場所に坐るのは大友皇子であり、蘇我赤兄と中臣金連が左右から、それを補佐している。あらゆることはこの三人に依って決められるであろう。そうしてこの三人の相談役として、蘇我果安臣、巨勢人臣、紀大人臣の三人が控えている。
並み居る者は身を固くして面を上げなかったが、それは天皇に一番近いところに座を持っている大海人皇子の存在を意識していたからである。大海人皇子は皇弟でもあり、実質的に東宮でもあるはずであったが、このように重臣たちの廟堂に於ける序列と地位がはっきりしてしまうと、大海人皇子の席は妙に浮き上がったものに感じられた。殊に天皇の第一皇子である大友皇子が太政大臣を拝したということは、大海人皇子の東宮という地位が、ふいに背後に、限りなく遠く押しのけられてしまった格好であった。
こうしたことは民たちには無関係な事であったが、それでもその日のうちに廟堂に重きをなす人々の名が、巷のあちこちでささやかれた。明日から自分たちの暮らし向きが、急に、これらの人々に依って変えられてしまうのではないかという思いを持った。いかに変わるか、誰にも見当はつかなかったが、よくなるという者もあったし、悪くなるという者もあった。
それからまた、民たちは民たちで敏感な触覚を持っていた。翌六日、朝廷に於いて冠位、法度ほうどのことを天皇に代わって発表したのは、大友皇子であるとか、いや大海人皇子であるとか、そんなことがいろいろに取沙汰とりざたされた。それから間もなく、罪人たちの大赦の発表があった。罪人たちの罪が許されるということで、いかに今度の廟堂に於ける人事が大きい意味を持つものであるかということを、民たちは思い知らされた形であった。それにしても、民たちはふいに施政の第一線におどり出た大友皇子という天皇の第一皇子については、ほとんど知るところはなかった。
大友皇子は仁徳の厚い聖天子の風格を持つ皇子だとする考えもあれば、その出生の家柄についてとやかく言う者もあった。
さらにこうした廟堂の人事を追いかけるようにして、半島の帰化人たちはそれぞれ高い官位が授けられ、その職分が明らかにされた。
この廟堂の人事は、額田女王にも顔色を変えさせるだけのものを持っていた。額田はこの発表のあった日、神事に仕えて、宮殿に伺候していたが、ほとんど立ってうられぬほどの強い衝撃を受けた。
前に、筑紫赴任の挨拶に来た蘇我赤兄が口を極めて大友皇子をたたえるのを聞いたことがあったが、その時漠然と感じた不安は、いまはっきりした形を持って現れて来たのであった。
── それはいかがなものでございましょう。
もしかつてのように額田が天皇のちょうを得ており、そしてこの事を前以て知ることが出来たならば、額田はこのように口に出して言ったに違いなかった。どうしても、このようなことがあってはならなぬという思いがあった。
2021/07/01
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