~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
兵 鼓 (2-01)
天智天皇の十年は、春から夏、夏から秋へと、比較的平穏に過ぎて行った。この年の初めの廟堂びょうどうの人事の発表によって、この年は何か一騒動持ち上がるのではないかといった不安が誰の気持にもあったが、いっこうにそのようなことはなかった。
大きい事件と言えば半島に於いて百済の旧領が次々に新羅のものとなって行きつつあるぐらいのことであった。これに対して、近江朝廷はいかなる手も打たなかった。半島に於いて新羅ひとりが強大になって行くことは、やはり一つの脅威であり、決して望ましいことではなかったが、これに対して唐がいかなる出方をするかも判っておらず、この国としてはいかなる対策の樹てようもなかった。いあかなる事態が起こってもいいように、せいぜい海辺の防備を固くするくらいのことで、皇族の栗隅王くるくまのおおぎみ筑紫率つくしのかみになったのも、こうした政策の一つの現れであった。
何事もなく秋を迎えたが、秋の深まる頃になってから、突然大きな事件が起こった。それは天智天皇が重い病患に倒れられたことである。
天皇の病気は固く秘せられ、その病状は朝臣たちにも発表されなかったが、額田はその病が容易ならぬものであることに気付いていた。額田は天皇の病気快癒かいゆを毎日のように神に祈った。何かなしに王宮にはただならぬ空気が漂い、人の出入りもはげしく、僧侶そうりょに倚る祈禱きとうも毎日のように行われていた。祈禱という祈禱はすべて行うようにということであった。額田はひと目だけでも天皇にえつし、病床にある天皇を見舞いたかったが、それはかなわぬことであった。
十月に入ると、織物の百仏が完成し、それが西殿に安置されて、最初の供養が行われた。これも天智天皇の病気と無関係なことではなかった。また袈裟けさや、金のはちや、各種の異国の香などが 飛鳥あすか法興寺ほうこうじに寄進された。そして法興寺の本尊の前で寄進の法要が盛大に行われるということで、大勢の僧侶たちが近江の都から出て行った。これもまた天皇の病気と無関係なことではなかった。
この頃になると、天皇の病患が重いということはちまたにも伝わっていた。いたずらに騒ぎ立てる者もあれば、その平癒を神仏に祈る者もあった。民は民で、一人の貴人の病患に無関心ではいられなかった。それが容易ならぬ事件であるということだけは判った。
額田はずっと館には帰らなかった。朝から晩まで神事に奉仕していた。天皇に、もしものことがあったら、自分も生きていられぬような思いの中に毎日を送っていた。
ある夜、額田は神に供える水をむために、王城内にある泉の ほとりに立った。その時、星が長く尾を引いて西方に流れるのを見た。以前蒲生野がもうのの夜に、同じように流星を眼にしたが、その時は幾つかの星が飛び、今度は一つであった。
額田は烈しい不安な思いにとらわれた。その夜は深夜まで神事に奉仕し、暁近くなってから仮眠をとるために身を横たえた。しかし眠れなかった。
額田は夜が明けてから、王宮内の寝所に帰った。寝所に帰る途中、二回誰何すいかされた。武装した兵たちが、到るところにたむろしていた。こうしたことはこれまでにないことであった。寝所に入ると、身動きできないほどの疲れ方で、体の節々が痛むのを感じた。額田は何日かぶりで寝衣に着替えて寝台の上で眠った。
目覚めたのは午刻ひる過ぎだった。侍女がやって来て、
「今日は朝から御病室に重臣の方々がお集まりになっておりましたが、さきほどそれぞれお引きとりになった模様でございます」
ち言った。額田ははっとした。
「では、御病状でも」
額田が顔色を変えると、
「そにょうな御様子ではございません。御気色みけしきはいつになくおよろしいと承っております。何か重大なお打ち合わせでもあるらしく、これから大海人皇子さまが御病室にお入りにバル御様子でございます。そのようなお使いが皇子さまのおお館に派せられたとただいま承りました」
「大海人皇子さまが!」
額田は思わず立ち上がっていた。胸の動悸どうきが烈しくなっていた。不吉な予感が四方から額田を押し包んで来た。しかし、考えてみると、その不吉な予感には何の根拠もなかった。もしあるとすれば、昨夜半、流星を見たことと、今朝、王宮内の庭に武装兵が配されているのを見たことぐらいである。それにしても、そうしたことと大海人皇子とを結び付けて考えるのはおかしなことであった。
しかし、額田は不安だった。大海人皇子の身辺に何か異常なことが起こったのではないか。何の理由もないことではあるが、しきりにそのような思いが、額田を押し包んで来た。こじょ一ヶ月ほど、額田は天皇の身の上ばかりを心配して、大海人皇子のことなどはついぞ思い出したこともなかったのであるが、不意に侍女の口から、大海人皇子の名を聞くと、こんどは大海人皇子のことから思いを他にそらせることは出来なくなっていた。
2021/07/01
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