~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
兵 鼓 (2-02)
額田は長い間、部屋の中を歩き廻っていた。侍女がまたやって来て言った。
「大海人皇子さまが御病室にお入りになったそうでございまう」
「どうぢて、そなたは ──」
額田は言いかけてやめた。額田は平生天皇の病室への出入りなどについて、さして関心を盛ったり、注意を払ったりしない侍女が、どうして今日はこのようにそうしたことに神経質になっているのであろうかと、それが不思議に思われ、そのことをただそうと思ったのである。が、それを途中で思いとどまったのは、自分が不安を感じているように、侍女たちもまた不安を感じているのではないかと思ったかっらである。それを質すのがこわかった。あるいは、自分を襲っている不安の実態を侍女は知っているかも知れなかった。考えてみれば、額田は天皇の病室を取り巻いて、朝臣たちの間にいかなる動きがあるか、そうしたことは全く知らなかった。神に仕えてばかりいた。
苦しい時間が続いた。いつも一日が早く過ぎ去るのに驚かされていたが、この日は時間のつのが遅く思われた。
夕刻に侍女がやって来た。
「大海人皇子さまは?」
額田は訊いた。
「まだ御病室からお出にならぬ御様子でございます」
侍女は答えた。更に苦しい時間は続いた。額田は神に仕えるために己が部屋を出なけらばならぬと思った。その時間は迫っていた。額田は服装を改めて、庭へ降り立った。その時、暮色が立ち込め始めている庭の向こうを、数人の人々が過ぎて行くのを見た。
額田の所からは、その一団の人たちが誰であるかは判らなかったが、額田は足早に、その方へ歩いて行った。二つの築山つきやまを廻ったところで、額田は追いついた。額田が声をかける前に、一団の人々は足を留めた。やはり額田が思ったように、大海人皇子とその重臣たちであった。
大海人がいかなる言葉を口に出したか判らなかったが、大海人をそこに残して、他の者はそのまま歩き去って行った。
「皇子さま!」
額田は声を出すと一緒に、烈しい感動に身を任せた。嗚咽おえつとなりそうな思いであった。この感動の正体もまた、額田には判っていなかった。漠然と長い時間、大海人皇子の身辺に変事があるのではないかという予感におびやかされていたが、いま大海人皇子の無事な姿を見て、ああよかったという思いが、額田をその場にくたくたと坐らせてしまいそうであった。
「皇子さま!」
再び額田が言った時、
「額田とも別れねばならぬ。こんどこそ本当に別れねばならぬ」
大海人皇子は言った。額田にはその意味が判らなかった。再び不安が額田を取り巻き始めた。
「それは、いかなることでございましょう」
「大海人は、天皇の御快癒を仏に祈るために出家して、吉野に入ることにした。お間そのことをお伝えして退出したところだ。この大海人の望みは、もちろん、おき届けになると思う」
「出家あそばして、吉野へ」
「いかにも」
いかなる経緯いきさつでそのようなことになったのか、その間の事情は判らなかったが、出家して吉野へ入るということは、何もかも棄ててしまうことであった。天皇の後継者としての地も、政治への発言の権利も、一切を棄ててしまうことであった。
「そう決心した以上、すぐに都を発つ。額田には、これでえぬであろう。こんど余にに代わって大友皇子が東宮の席に坐ることであろう。このことは額田にとっても、額田が生んだ十市皇女にとっても悪いことではあるまい、十市皇女は東宮妃になる」
それから、
「余に代わって、十市皇女によろしく申し聞かせてもらいたい。十市皇女がこの世で、女として仕えなければならぬには、大友皇子である。大友皇子だけである。母の真似まねをして、二人の男を持ったりしてはいけぬ」
最後の言葉、笑いに紛らせて言った。
「十市皇女さまに、何かそのような」
「よくは知らぬ。そうしたうわさはある。噂になるくらいだから、何事かあるか知らぬ。母親の血を受け継いでいるからな」
今度もまた、最後の言葉は、冗談に紛らわした言い方だった。
「では」
大海人皇子は去ろうとした。
「皇子さま!」
「このになって、いやに優しいな。尼になって余と一緒に吉野へ入るか」
大海人皇子は、その言葉を残して、いきなり歩き出した。
「皇子さま!」
額田はその場に立ち尽くしていた。大海人皇子は振り返らなかった。額田は大海人皇子の地面をたたくつの音を聞いていた。若い日に、難波なにわの半造りの王宮の台地で、執拗しつように自分を追いかけ廻したあの靴の音と同じ沓の音であった。
2021/07/02
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