~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
兵 鼓 (2-03)
大海人皇子の出家のことは、翌日の王宮内に大きい波紋を投げかけた。事の意外に驚く者もあれば、予期されなかったことではないと、そういう受け取り方をする者もあった。これはこれで大事件には違いなかったが、一度小康を得た天皇の病患が、再び案ずべき状態になったことで、王宮内はまたものものしい空気に包まれた。大海人皇子の事件は、そのためにどこかに吹き飛んでしまった格好であった。
二、三日すると、天皇の御病状がっや快方へ向かったということが伝えられた。そうすると、病室を取り巻いていた重く暗い空気の中に、ごくわずかではあるが、明るさがし込んで来、再び大海人皇子の出家問題が人々の口の端に上った。
大海人皇子は内裏だいりの仏殿の南の廻廊で剃髪ていはつし、天皇から贈られた袈裟けさまとったということ、そして大勢の朝臣たちに送られて、吉野に向けて発ったが、供廻りの者はごく僅かだったということ、それから妃たちの多くは近江に留まり、鸕野皇女うのひめみこがひとり皇子のお供をしたということ、そうしたことが、いろいろな言い方でささやかれた。
この頃になって、今度の事件について、額田は額田なりの見方が出来るようになっていた。
噂では大海人皇子はあの日天皇から後事を託されたのであるが、それを辞して受けず、皇后倭姫王やまとのひめおおきみこそその地位に立つべきであり、大友皇子がそれを補佐して諸政を執り行うべきであると主張したということであった。そして同時に自分が仏門に入る考えをはっきりさせたと言う。
額田には、この噂は恐らく真実に近いものであろうと思われた。ただそうした事態の中で、いかにしても、大海人皇子の出家のことが、唐突に不自然に感じられ、人々は口にこそ出さないが、そこに何か陰謀めいたものがあったのではないかという見方をしているようであった。額田は、しかし、そうは思わなかった。陰謀めいたものがあろうと、なかろうと、大海人皇子はもしそれに立ち向かう気になれば立ち向かって行くだろう。大海人皇子はそうした事とは別に、天皇の亡き後の混乱を、自分が居ないということに依って防ごうとしたのである。大海人皇子は自分の生命の危険を感じて、それを避けるために、都を出て行ったのではない。もしかしたら起こらないとも限らぬ国の混乱を防ぐために、あのような態度をとったのである。
額田はこのように考えていた。
十一月に入ると、近江の宮殿には重々しい空気が漂い始めた。その重々しい空気の立ち込めている廻廊を、朝臣も武臣も女官たちも顔を伏せて、これ以上静かな歩き方はないといった歩き方で歩いた。人の動きはなべてひそやかではあったが、それでいてどこかあわただしいものがあった。
十一月の終わりのある日、さきに完成した織物の仏を西殿に安置し、その前に重臣たちが集まった。重臣たちが集まると、その度に王宮の中は、天皇の御病状に変化があったのではないかといった不安な空気に包まれた。人々は息をひそめ、聞き耳を立て、必要以外の言葉は口から出さなかった。この日も同じことであった。しかし、西殿内の重臣たひの動静は、誰がそこに居合わせたか知らないが、その夕刻には、王宮内のすべての人々に伝えられた。あちこちで、そのことが囁かれていた。それにると、西殿に集まったのは、大友皇子、蘇我赤兄、中臣金連、蘇我果安臣、巨勢人臣、紀大人臣の面々で、まず大友皇子が手に香炉こうろを取って、
── 六人心を同じくして、天皇のみことのりそむかないこと、いまここ、御仏の前に誓おう。もし、たがうことあれば、天罰をこうむることになるだろう。
と宣誓をした。そして次に今度は蘇我赤兄が香炉をとって、
── わたしたち五人の臣は、大友皇子にしたがって、天皇の詔にたがわざらんことを、今ここで誓い合おう。
と言い、それからまたそれぞれがおごそかに宣誓を取り交わしたということであった。
このようなことがあった夜、天皇の御容態が思わしくないということで、朝臣も武臣も、主だった者はみな徹宵宮殿に詰めることになった。額田女王もまた、病室近い一部屋に、他の女官たちと一緒に詰めていた。しんと魂の冷え上るような静かな夜であった。読経どきょうの声だけが遠くに聞こえている。夜更よふけた頃、
「雨がはげしく降り出したようでございます」
と、女官の一人が言った。なるほど、それまで静かだった戸外に雨の音が聞こえている。王宮の屋根を叩いている雨の音である。やがてその雨の音は烈しくなった。木でもはじけるような、そんな音である。何となく不審な気がして、額田が腰を上げようとした時、
── 火事だ!
という出火を告げる声が聞こえた。いっせいに皆立ち上がった。雨の音ではなくて、館の柱や屋根が焼けはじける音であったのである。廻廊へ出てみると、ほのおの光で庭先が明るくなっていた。大蔵の建物から出火し、別棟の宮殿の一部に火が移ったということで、人々は庭に出てその方へ走った。
宮殿の一部を焼いただけで、この火事はおさまったが、人々の心には何とも言えず暗いものが走った。火気のないところからの出火であったので、この場合もまた放火と見なければならなかった。
2021/07/02
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