~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅵ-Ⅲ』 ~ ~

 
== 『 額 田 女 王 』 ==
著 者:井上 靖
発 行 所:㈱ 新 潮 社
 
兵 鼓 (3-01)
山科陵やましなのみささぎの本格的造営が始められるという発表があったのは、五月に入ってからのことであった。
うわさではかつてないほど大きな陵を造る計画で、その工事に要する人員はおびただしい数に上るだろうと言われた。
近江の民たちは、陵が近江に近いところから、賦役ふえきは免れないものとして、寄るとさわるとその話題で持ち切った。明るい話題ではなかった。しかし、こうしたことは間もなくやんだ。近江朝廷では、美濃みの尾張おわり二国の国司に命じて、山科陵造営の人夫たちを徴せしめることにしたということが伝えられ、それがちまたの噂となった。近江の民たちは賦役から免れたことで吻とした。
この頃から都には人の動きが目立って来た。朝臣も、武臣も、何となく落ち着きなく、王宮へ入って行ったり、そこから出て来たりした。毎日のように重大な発表があることで呼び集められたが、結局のところはいかなる発表も行われなかった。重臣たちの間で何事かが議せられていることは事実であったが、結論というものは出ないらしく、そんなことでいたずらに人心を刺戟しげきしていた。
五月の終わりに、額田は侍女数人を連れて、輿こしで湖畔の道を蒲生野がもうのの方向に向かった。天智天皇七年の蒲生野狩猟の時より四年経っていた。あの行装美々しかった蒲生野狩猟は五月の初めであり、今は五月の終わりであった。夏の陽光はその時よりずっとはげしくなっていたが、湖上を吹き渡って来る風はむしろ涼しくに快かった。
額田にとっては去年の暮の悲しみの日以来初めての外出と言ってよかった。天皇生前の盛んなる催しをしのびたくもあったし、あの楽しかった日の天皇のお姿をもう一度まぶたの上によみがえらせたくもあった。そんなつもりでの遠出であった。
しかし、この遠出は途中で打ち切らねばならなかった。道が都を離れて原野の中に入って行くと間もなく、額田たちは行手に異様なものを見た。初めはそれが何であるかわからなかったが、近付いて行って見ると、武装した一群の兵たちであった。見晴るかす平原を、兵たちの集団が埋めている。
額田たちは今来た道を引き返し始めたが、すぐ背後から追って来た何騎かの騎馬武者にとらえられて詰問された。誰が見ても額田たちは宮廷の女官以外の何者でもなかったので、すぐ釈放されたが、浴びせられた言葉はめったに耳にしない荒々しいものであった。
「兵たちは合戦を前にして気が立っている。用もないのにこんなところをうろつくと、満足な体では帰れぬぞ。とっとと失せるがよかろう」
額田たちは湖畔の道を引き返したが、今度もまた途中で兵の集団にさえぎられた。前の兵団とは違ってどこかへ移動しつつある兵団であった。これもまた長槍ちょうそうを携えたり、旌旗せいきを背負ったりしていて、戦線に向かう出動兵士としか見えなかった。この方は明らかに平原を突切って南を目指していた。
額田たちは、湖畔のあしの中にひそみかくれるようにして、兵団の通過を待った。兵団の移動が途切れると、芦の中から出たが、何程も行かないうちに、また芦の中にひそまねばならなかった。
額田たちが都に辿たどり着いたのは暮れ方であった。額田たちがこの日湖畔の平原で見たものはただ事ではなかった。戦場へ向かう兵の進発であるか、合戦に備えての兵の移動であった。
この日を境にして、その翌日から、額田の眼には王宮内も、巷々の様相も全く異なったものとして映った。湖の色にも、湖を取り巻く山々の色ももはや平静なものではなかった。別段これまでと変わったところはなく、巷々はむしろひっそりとしちえるくらいであったが、そこには眼に見えぬおそろしい者が無数に張りめぐらされている感じであった。
果たして、間もなく巷には不気味な噂が流れ始めた。吉野と合戦が行われるらしいとか、既に吉野を取り巻いて、要処要処には兵が配されてしまったとか、吉野は吉野で兵を集めつつあるとか、そういった物騒な噂だった。こうした噂が流れ出すと、急に都大路は騒然たる様相を呈して来た。都で生計を立てていた民たちが、所帯道具を車に積んだり、馬の背に乗せたりして、どこかへ移り始めたからである。六月の初めから中旬へかけて、巷はそうした男女で混乱を極め、それを制止する役人たちの姿も見られたが、全く無力であった。役人は役人たちで、やはり落ち着きを失い、右往左往している感じだった。
王宮もまた例外ではなかった。ここでは毎日のように重臣たちの会議が開かれ、その会議の模様が、あれこれ、まことしやかに侍女たちの間にまで伝えられた。誰と誰とは吉野方であるとか、誰と誰とはすでに都から姿を消しているとか、そういった噂もあった。しかし、都からすでに姿を消してしまったと噂される人物がまた姿を現したりして、真相というものは全くつかめなかった。
2021/07/04
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